衣紋道高倉流のふたあいの会へ
衣紋道とは、装束の着装法のこと。本来は装束も衣服のひとつですので、平安時代摂関政治の頃までは装束は緩やかなゆったりしたもの(柔装束)を自分で着用していたと考えられています。平安末期、院政を行った鳥羽上皇は装束に対して並々ならぬこだわりがあり、生地を厚くし糊を利かせて、かっちりした姿を好みました。衣紋道の祖と称される源有仁と共に装束のデザインに取り組み、威儀正しく美しい装束を考案しました。これが強装束です。強装束は、ごわごわして着にくいため特別な着付け技術が必要となり、この技術が衣紋道となりました。衣紋の技を体得した公家の中で徳大寺家、大炊御門家が有能な装束師を輩出し、徳大寺家から山科流、大炊御門家から高倉流が生まれ、現在の宮中でも並立して採用されています。現代のきものとは違うものですが、何といっても華やかで美しいそしてこの上なく上品な衣裳です。
十二単というのは後世になって生まれた俗称。十二単という名前から12枚重ねるものと思われがちですが、基本は8枚。重ねる打衣の枚数が5枚になったことから過「五衣唐衣裳(いつつぎぬからごもろ)」というのが正式名称です。
十二単という言葉がでてくるのは「源平盛衰記」の中で、壇ノ浦に身を投げる平清盛の娘であり安徳天皇の母である建礼門院平徳子の装いが「弥生のころなれば藤がさねの十二単を召されたり」とかかれているのが最初なのだそうです。
平安時代、宮仕えする女房(清少納言や紫式部)が主人にあうときに着装しました。それ故に、女房装束といわれます。身分の高い人に仕えるものが着装した正装なのです。身分が高い中宮(定子や彰子)は寛いだ装いが許され「小袿」でした。これが「小袿」。身分が高い人は略装で仕えるものが正装というのは西洋でも同じです。執事が燕尾服を着ているようなものといえばわかりやすいでしょうか。
公家社会から武家社会へ政権が変わると、公家装束の文化は簡略化の一途を辿ります。十二単は重ね袿の上に直接唐衣と裳をつけただけで正装となってしまい、本来の十二単は大礼服となります。小袿は十二単に代わり礼服となりました。
江戸時代になって政治が安定すると、十二単が復興されます。仙石先生のお話によると、きっかけとなったのは後水尾天皇にお輿入れされた和子さま(家康の孫)のご成婚ではないかとのこと。和子さま(後の東福門院)のために童女の正装である汗衫と十二単がつくられます。
明治になると十二単は即位の礼や皇族のご成婚などだけの最高位の装束なりました。
この着装体験は簡易的なもので、きものと帯の上から着ています。なので嵩高くなっているのです^^;
台湾から高倉流へ入門されたお二人と
「きものカンタービレ♪」の読者だそうです。嬉しいっ。実は台湾の読者はとても多いのです。レクチャーにいたしてくださる方もいましたし、現地でお声がけされたことも。
装束は時代によって変化し、一概に語ることのできない世界ですが、それだけに興味深い。日本の装束の美しさが世界に伝わりますように。