紫芋色の琉球壁上布に葡萄の描かれた小千谷縮の帯
台風の日の装い / 織田工房の小千谷縮に栗山紅型の大麻帯
絞りの浴衣で過ごす @ 草津温泉
歌舞伎鑑賞の装い / 寺子屋にちなんで文箱の帯
大城廣四郎工房の琉球駒上布 / 松枝忍作品展 at たまプラーザ東急百貨店
番匠(バンジョー)柄の琉球壁上布に葡萄の描かれた小千谷縮の帯
第37回 草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル at 草津音楽の森国際コンサートホール
草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバルが開催中です。(2016年8月17日〜30日) この音楽祭は、日本の若手音楽家や音楽愛好家に、世界の優れた演奏家から直接指導を受ける機会を設けることを目的として1980年に設立されました。当初はアカデミーのみの構想でしたが、国内外の名実共にトップの講師陣の演奏を目の前で見て生で聞くことが何よりの学びの場になることから、コンサートも企画され、湯けむりの街、草津温泉で日本で初の夏の音楽祭が開催されることとなりました。ウィーンフィル、ベルリン フィルの首席奏者や世界で活躍する演奏家が講師をつとめ、草津の街から2kmぐらいの森の中にある草津音楽の森国際コンサートホールにて約2週間開催されます。
天皇皇后両陛下は夏のご静養先として軽井沢と草津に御滞在されます。例年、軽井沢の大賀ホールでのコンサート、そして草津の音楽祭にもご出席されていらっしゃいます。美智子皇后陛下はアカデミーのワークショップにもご参加され、コンサートには両陛下がご臨席されることから、音楽愛好家だけでなく幅広く有名な音楽祭となりました。美智子皇后陛下は2003年よりいらしているように記憶しております。
天皇皇后両陛下が御滞在中の草津のレポはこちら☆
第37回のテーマは「イタリアからイタリアへ♪」
イタリアは陽光に満ち溢れ明るくパーッと華やか。ルネッサンスからバロッグ、そして古典派へと音楽史は流れていきますが、テーマがイタリアならはずせないでしょう!というイタリアン•コンチェルトをこの音楽祭で聴くことができたのは嬉しかった♪
音楽祭は高原の音楽祭に相応しいアルペンホルンの演奏で幕を開けます
大雨のため室内での演奏の日もありました
アルペンホルンは、清々しい高原の空気をいっぱい吸い込むような開放感のある屋外での演奏がやはり嬉しいですね〜
週末には呈茶席もありました。
草津名産の花豆のお干菓子。ボソッとしたお菓子の後のお茶は殊の外美味しい。
開幕前と休憩時間には尺八と琴の演奏もあり♪
音楽祭のドレスコードはとくにありません。絽の小紋の装いのことが多いですが、紬のときは、高原らしくカジュアルな装いをテーマにあわせて自分なりに楽しんでおります。
音楽祭のテーマ「イタリア」にちなんで、イタリアンカラーの装い♪
そして、栗山紅型のヴァイオリンの帯は、たくさんの方に喜んでいただけました☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
天皇皇后両陛下は本日より草津に御滞在されます。草津は秋の気配がです。台風の影響が心配ですが、心地よく御滞在されますことを。
美しいキモノアカデミー 土屋順紀先生のお話 / 手括りの絣の宮古上布に波に燕の刺繍帯
第15回「美しいキモノアカデミー」へ
「紋紗」重要無形文化財技術保持者(人間国宝)の土屋順紀先生のお話
向こう側の景色が透けてみえてしまうほど薄く透明感がある紋紗。土屋先生はすべて植物から染料を採取して染めています。志村ふくみ先生から、色は自然からいただくことを学び、北村武資先生からは、捩り織の技を学び、それを生かし、独自の絣の技を融合した作品づくりをされています。
捩り織の半綜絖である篩。隣同士の経糸を絡ませて緯糸を通す捩り織でつかわれます。
「今、生きているなら、今のものをつくらなければならない」。古典の良さもあるけれど、今のきものは現代のアートである。若い陶芸家や作家から常に刺激をいただいている。というお話もありました。
伝統工芸展をみていても感じますが、伝統は技を継承しつつ進化しています。
【8月27日の装い】東京◇雨 / 最低気温25℃ 最高気温27℃
蛇の目傘柄の手括りの宮古上布に野口の波に燕の刺繍の絽塩瀬帯をコーディネート
水に強い上布、蛇の目傘文様の絣、雨の日も楽しくなる装いです♪
オリンピックと着物 / 着付教室の普及
この1週間、どこへでかけても、リオオリンピック2016閉会式での小池百合子東京都知事の話題でもちきりでした。
三つ紋付の色留袖はご自身のもの。着つけは帯同された着付師の方がされたのだそうです。着付師は公費からではなく小池都知事が個人的に手配されたとのこと。つまりすべて自腹。※ 東京都庁広報課を通じて確認いたしました。
小池百合子さん、本当に着物を愛する方なのだと思います。こういう方が日本を代表する立場にいらっしゃることが、着物好きとして心から嬉しい。
着付けや着姿のことが賛否両論の話題となっていましたが、次回開催地の代表として五輪旗の引き継ぎという式典に相応しい装い。ごく自然な着姿であったというか、所作も含めて、着慣れた堂々たる美しい着こなしでいらしたと思います。小池都知事は容貌が美しすぎるゆえに、ドラマの中の女優さんや雑誌の中のモデルさんの着姿と比べられてしまうのかもしれません。
ブータンのように<自国の衣裳を着ることは普通であり当然>とまではむずかしくても、現実に着物を着ている人を多く目にする機会があれば、自然な着姿というものが理解されるようになるかと思います。着物を着ない人も着物について一家言あるということが如実に現れた今回の話題。日本人がまだまだ着物に興味があるが故のことと考えたら、着物業界の衰退化が懸念される中での光明となりそうな…。東京オリンピックを迎えるにあたって、<日本には着物がある>と日本人が誇れるように、たくさんの人が着物を着る波がくるように願っています。
服飾史を学ぶ中で、着物昭和史についても調べていますが、その中で、着付教室が台頭したキッカケをつくったのは、1964年(昭和39年)東京オリンピックであるという説があります。東京オリンピックの開催前に、オリンピックに華を添えるコンパニオンを募集し、その教育の一貫として着物をキレイに着付けるための勉強会があり、これが着付教室へと発展していったということなのですが…。
東京オリンピック1964当時のことを知っている方は、すでに現役を退かれていて、正確な情報が得られていません。糸口となりそうな些細なことでもかまいませんので、もしもご存知の方がいらしたら、ぜひご連絡いただければと思います。
生活の中で自然に覚えていくというごく当たり前のことだったことが、着付教室で学ぶものになったことよって、マニュアルがつくられ、わかりやすくするための固定観念(季節の着用ルールなど)や信念のようなものまで生まれたように思います。
着付教室の普及というのは、世界の服飾史の中でも、とても興味深いです。
アンティークきものを帯に仕立て替え / 琉球壁上布に竹に雀の絽の帯
きものは1枚の布を8つ(身頃×2、衽×2、袖×2、衿、共衿)の部分になるように直線に裁断して仕立てられています。なので洋服のように形ができているものを着るのではなく、個々の身体にあわせて着付けをして完成するものです。日本人にとってきものが日常着ではなくなってしまった最大の理由は<着付け>という手間がかかるということにあります。
しかし、洋服のような立体的な形がつくられていないことによって、きものを解くと再び1枚の布に戻すことができるという利点があるのです。きものを解き1枚の布に戻してから水洗いして伸子(竹に針がついた棒)や板をつかって糊づけして、幅を揃える、これを「洗い張り」といいます。きものが日常着であった昭和30年代までは一般家庭で主婦の仕事としてごく普通に行なわれていました。きものはある程度着用したら(着る頻度によりますが、毎シーズンだったり、1年〜3年)、洗い張りをし、再び仕立て直しをするということが当たり前の衣裳なのです。
一枚の布に戻すということは、染め直すこともサイズを変えることもできます。そして他のものへとつくりかえることもできます。きものから羽織、帯、小物、布団などにも流用されていきました。
アンティークの黒留袖をつくりかえた帯です。
うまく繋ぎあわせると1枚のきものから2本の帯をつくることができます。帯としてデザインされたものではないことが結果として面白いものができたりすることもあります♪
更紗文様のトートバッグは、岡重の1反の反物から帯とバッグにしています。
現代の生活において、洗濯機で簡単に洗うことができない(できるものもあります)、着付けという動作の手間がかかる、というのは面倒で贅沢なものかもしれません。しかし、きものは1枚の布に戻して再生ができる。使い捨てではないという感覚が生みだした、日本の美なのです。
「きものカンタービレ♪」のFacebookページ
赤岩集落 重要伝統的建造物群保存地区へ
六合村の赤岩集落へ。草津に御滞在中の天皇皇后両陛下がご視察されたこともあり、前々から興味がありました。
赤岩集落は、白砂川を渡ったところにある50世帯あまりの小さな山村です。
幕末から昭和30年頃までの養蚕農家の建物が残っています。用水の確保が難しい土地だったことから、水田はなく、養蚕と製麻が生業の集落だったのだそうです。
近代養蚕法の影響を受けて、気抜き櫓の越屋根をもつ建物があります。普通に人がお住まいでいらっしゃるようですが、今は養蚕はされていないとのこと。
2005年(平成18年)に重要伝統的建造保存地区に指定されています。
昭和37年頃に建てられた稚蚕(卵から孵った1〜3齢の蚕)を育てるための稚蚕飼育所
温度調節の設備が今も残っています。
かいこの家
養蚕についての展示がされていました
蚕が繭をつくる藁蔟と回転蔟
2階が道から展示スペースに自由に出入りできるようになっていて、1階は住居になっているようです
今は養蚕はされていなくなっても養蚕でつかわれる道具などがあちらこちらで垣間みえます
収穫した穀物や製麻につかった蔵
道祖神
毘沙門堂
村の高台にある赤岩神社
幕末の蛮社の獄で捕えられその後脱獄出奔した高野長英を匿っていたとされる湯本家。湯本家は戦国時代に草津温泉の湯守だったそうです。武田家滅亡の後に、真田家にしたがって、後に赤岩に移り住んだといわれています。
養蚕をするための三階屋になっています。総三階建の土蔵造りで置屋根式の切妻屋根という珍しつくり。
草津から山々をくだり、橋を落としてしまったら、取り残されてしまうような集落。こういったところに、日本の原風景が残されそこには、養蚕や自然布の歴史がつまっています。古き良き時代の日本らしい長閑なところでした〜♪
ああ、祇園祭のレポを残したまま夏が終わってしまった…(x_x;)
富岡製糸場と絹産業遺産群 世界文化遺産「荒船風穴」へ その1
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、日本の開国後、欧米列強と肩を並べるための外貨習得手段であった生糸づくり、絹の大量生産化のためのいわば技術の集合体です。富岡製糸場(富岡市)、高山社跡(藤岡市)、田島弥平旧宅(伊勢崎市)、そして、荒船風穴(下仁田町)の4ヶ所が2014年に世界文化遺産に登録されました。
この4ヶ所、近いようで遠いところに点在していて、中々まわれていません。
富岡製糸場のレポ、富岡製糸場 建物と歴史 富岡製糸場 繰糸場と生糸づくり
荒船風穴は群馬県ですが、富岡よりも軽井沢のほうが近いです。夏の軽井沢近辺はどこも混んでいるので、こちらは穴場。軽井沢から1時間ぐらいでいくことができます。周辺道路は交通規制があり神津牧場経由でいくことになります。
一般乗用車が入ることができる一番近い荒船風穴駐車場までは、大きな車ではいくことができない細い道です。土日のみ、帰り道となる荒船風穴見学広場に一方通行のタクシーが待機していて荒船風穴駐車場までピストン輸送をしています。歩くのが苦手な人は土日に行かれたほうがよろしいかと思います。
急な勾配ではありますが、舗装されている道なので、きものでも問題なしです。
熊の出没地域なので、1人では歩かないほうが良さそうです(゚ー゚;
下り坂を徒歩15分ぐらいでしょうか
歩いていると、冷風体験ポイントが
岩の下から流れてくる冷気は10℃をきっていました
上州と信州の県境の山並みは不思議な形をしています
荒船風穴の入口となる荒船風穴見学広場がみえてきました。土日のみ帰りの登り坂はここからタクシーで駐車場まであがることができます。一区間です。
荒船風穴は下仁田町南野牧屋敷甲という集落の上にあるのです。
標高1000mぐらいですが、この日の気温は30℃!
いよいよ、荒船風穴へ
つづく!
天然の冷蔵庫 「荒船風穴」へ その2 / 風穴と蚕種
富岡製糸場と絹産業遺産群 世界文化遺産「荒船風穴」へ その1 のつづき(^_^)/
これが天然の冷蔵庫、世界遺産「荒船風穴」、国指定遺跡「荒船•東谷風穴蚕種貯蔵跡」ですヽ(゚◇゚ )ノ
そもそも風穴とは…?
天然の冷気が吹き出す洞穴や岩場のこと。洞窟の内外で生じる温度差や風圧によって、洞窟の出入り口から大気循環があるところのこと。日本では富士山麓や信州に多く点在しています。風穴は夏でも冷風が吹き出すことから古くから地元では貯蔵庫代わりにつかわれていたようです。
1865年(慶応元年)信州安曇野にある稲核風穴を前田喜三郎が蚕が孵化してしまわないように、卵のまま(蚕種のまま)とっておくために風穴をつかったのが風穴の蚕種貯蔵庫としてのはじまりとされています。こちらが蚕の卵を産みつけた蚕種紙。
風穴の利用によって年1回であった養蚕が年に数回可能になり、明治〜昭和初期の繭の増産しいては生糸の大量生産技術の向上に貢献しました。そして昭和初期冷蔵庫の普及とともにその役目を終えました。
荒船風穴は荒船山の北側山麓、下仁田町の西端の標高840mの山間にあります。荒船山の形、エアーズロックみたいです。
眼下には西上州の山並みに囲まれた集落があります
荒船風穴は文化財保護のために今年の春から有料となっています
地元のガイドの方がいらして説明をしてくれます。これは富岡製糸場もそうだったのですが、群馬県は観光として世界文化遺産の普及につとめているようです。見学証の繭は真中が凹んでいるので日本原産種ですね
荒船風穴は地元で蚕種製造業を営んでいた庭屋静太郎が1905年(明治38年)に私財を投じて建設。風穴の蚕種貯蔵庫としては最大級に成長しました。風穴の運営は風穴の管理棟と7km離れたところにある春秋館(庭屋家の自宅兼事務所)に専用電話をひいて行なわれ、日本各地だけれなく朝鮮半島からも貯蔵の依頼がありました。庭屋家の次男は高山社蚕種学校の卒業生で、風穴での蚕種の貯蔵の知見があったのだそうです。運搬は上野鉄道、下仁田駅からは車、春秋館からは馬車がつかわれました。
風穴の冷気はこの岩壁から下りてきます
1号風穴の中は1.8℃(((゜д゜;)))、現在地は20.9℃
ここは外気との温度差が体感できる真夏に行くのがおすすめ♪
世界遺産の中でも<体感型>というのは、他にはないのでは。
風穴の中は四角に区切られていてかつてはここに貯蔵庫がありました
明治時代の荒船風穴の写真
石積みに囲まれた倉庫になっています
2号風穴は4℃、現在地は23.1℃
足元が冷やっとする、と思ったら、足元にも温度計があり19.2℃でした
山の中ではありますが、道は舗装されていますので、きものに草履(カレンブロッソ)なら問題ありません。もちろん、きものを普段着として考えればの話ですが。
ちなみに岡谷近代化産業遺産群巡りの旧岡谷上水道集水溝は、カモシカに会っちゃいましたしモンペに地下足袋が望ましいです。レポはこちら☆
自然がつくりもたらした、天然の冷気が日本の近代産業の礎となっています。
9月の着物 / 墨色地の長襦袢で透け感をおさえて薄物を着る
いわゆる<季節の着用ルールの目安>では、9月1日から単衣を着るとされています。
…が、温暖化の昨今、日常の着物はその日の気候や陽射しにあわせて自由で良いと思います。
衣更えについて→衣更えの変遷と今
でも、それなりの工夫をすることも。
濃い地色のきものに白地の長襦袢ではこんなに透け感がありますが、
墨色地の長襦袢を着ると透け感がおさえられますので、単衣のようにみえます。
薄い色の地色にはそれほど透け感はありませんので、気にせずにお彼岸のころまで薄物を着用しています。
着用ルールはあくまでも目安。それに縛られ着物を着ることが苦痛になったり、ましてや人様に押しつけるのは好ましくないように思います。
秋の気配が漂っていても日中の気温が30℃を超えるような日は、私は無理はしません。かといって、お洋服を着るという選択肢はないのです。それも人それぞれで良いのではないでしょうか。
ニホンザルのワンダーランド♪ 地獄谷野猿公苑 at 志賀高原
志賀高原にある地獄谷野猿公苑へ
温泉に入るサルとしてアメリカのTIMEの表紙を飾り、1998年の長野冬期オリンピックの選手をはじめとした世界中のオリンピック大会関係者が訪れ、話題となったことから、ここは中国人観光客や日本人観光客よりも欧米や豪州からの観光客が多いという珍しいスポットです。欧米ではスノーモンキーパークとして知られているそうです。
送ってもらって車でいけるところから徒歩20分。ここは駐車場ではないので、一番近い駐車場の上林温泉駐車場からですと徒歩30分以上かかります。人里離れた山奥にあるのです。
途中には急な山道もありますので注意。くれぐれも歩きやすい靴で。(私はカレンブロッソが歩きやすいので、こうなりますが…)
途中ところどころに案内板があります。山林の中ですが地獄谷からの熱気なのか、暑い!!体感温度は35℃以上あったように思います。汗だく(@@;;;;
すれ違う外国人の方々に、この装いは喜ばれました^^;
地獄谷温泉です。左手は後楽館という旅館。海外で紹介され外国人観光客に人気。こちらの露天風呂にはお猿さんも入ってくるらしい。。。
横湯川の流れる渓谷にあり大きな噴泉がありました(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)
そして彼方此方にニホンザルがいっぱい(ノ゚ο゚)ノ
こちらのニホンザルは日光のニホンザルと違って餌付けされていることもあり、人を襲いませんし、逃げることもしません。
とくに柵があるわけでもないので、
道すがら親子連れの行列にも会いました。
逃げも隠れもせず、人間と共存している…
普通に道の真ん中でじゃれあっています。可愛い〜(≧∇≦)
こちらが、猿が入浴する温泉です
この日は猛暑だったので、入っていたのは1匹だけ
やっぱり暑そう(^_^;)
川沿いの橋の下に集っていました
温泉からあがってきたサルが近くまでやってきました
そして、私は気がつかなかったのですが、、、ニホンザルの子どもがきものを触りにキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!
人間でも人のきものに勝手に触ろうとする方がいらっしゃいますが…(-。-;) サルもきものの手触りが気になるようです。
それにしても、可愛かった
上林温泉にある猿座カフェ。こちらも外国人観光客に対応したメニュー、サービスになっています。ちょっとした不思議空間です。
この日は、たくさんのニホンザルに会えましたが、野猿公苑は自然の中の一部なので、出会えないこともあるそうです。
こちらは訪れるならニホンザルが温泉を求めてやってくる真冬が良さそうです♪
諏訪神社 上社前宮へ / 御柱祭と小宮祭
今年は申年。御柱祭の年でした!
諏訪大社上社前宮へ
諏訪大社は信濃の一の宮。その起源は定かでなく日本で最も歴史が古いといわれています。諏訪湖の周りに上社の本宮と前宮、下社の秋宮と春宮という四つのお宮があり、神さまが移動するという説が今に伝わり生きています。
諏訪大社上社に祀られているのは、出雲大社の大国主命(おおくにぬしのみこと)の息子である建御名方命(たけみなかたのかみ)とその妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)。古事記によると、建御雷神(たけみかずち)を恐れて出雲から諏訪に逃げ延びてきた建御名方命は諏訪の守矢一族に勝ち、この地で現人神(あらひとがみ)となったとあります。その子孫が諏訪氏です。武田勝頼の母の湖衣姫の実家でもあり、武人と神官の顔をもつ特異な家系となります。その守矢一族が信仰していたのが太古の昔よりあるミシャグジ信仰の洩矢神(もりやしん)。上社前宮はその発祥の地といわれています。洩矢神と守矢一族については記事を改めます。
上社の重要な祭祀である御頭祭はこの十間廊で行なわれています
左の内御玉殿は諏訪明神の祖霊が宿る御神宝が安置されていたところ
前宮の拝殿はさらに奥にずっと入った山にあります
この地には大祝(諏訪氏)の居館をはじめとして建物が軒を連ねていましたが、大祝が宮田渡に移ると祭典に必要な建物のみになったのだそう
諏訪大社の神紋である梶の葉。梶の葉は七夕の節句でもつかわれますが、神事にもちいられることが多く、神聖な木とされています。上社の神紋は足が4本、下社の神紋は足が5本です。
春に山出しされたばかりの新しい御柱が四隅にありました
諏訪大社には本来、本殿と呼ばれる建物がありません。上社は御山を御神体として拝しているそうです。古代の神社には社殿がなかったといわれていて、諏訪大社はその古くからの姿を残しています。社殿の四隅には御柱があり寅と申の年に山から樹齢200年以上の巨木の樅の木を曳き建てられます。これが平安時代以前からつづく御柱祭です。
諏訪周辺の山中から御柱として樅の木を上社本宮と前宮、下社秋宮と春宮の各4本計16本を切り出し各地区の氏子の分担で4つの各宮まで曳行して、社殿の四方に建て神木とする勇壮な大祭。巨木が山から落とされる木落としと川越しの山出しは、男の度胸試しとなる勇壮な祭りで、日本全国から大勢の人が詰めかけます。
諏訪大社の御柱祭が終わると、諏訪地方の神社での小宮祭といわれる御柱祭があります。諏訪地方の6つの市町村(諏訪市・茅野市・富士見町・原村•下諏訪町・岡谷市)に点在する様々な神社それぞれに、夏の終わりから秋まで御柱が建てられます。
小宮祭は地元の暮らしに根付いた密着型ですが、旅行代理店から体験参加することができる神社もいくつかあります。ご興味がある方は検索されてみてください。
つづきます♪
諏訪大社 神長官守矢資料館へ 高過庵•空飛ぶ泥船
神長官守矢資料館へ
諏訪大社上社の神官長を古代から明治のはじめまで勤めてきた御家があります。太古の昔よりあるミシャグジ信仰の洩矢神(もりやしん)を祀った守矢一族の末裔です。
守矢氏は、出雲からやってきた建御名方命に敗北しますが、建御名方命を現人神の諏訪大社の大祝(おおほうり)として崇めつつも、守矢氏が筆頭神長官として神事を司ることで実権を握り、ミシャグジ信仰の洩矢神(もりやしん)を祀った祭祀をつづけてきたといわれています。
ミシャグジ信仰の祭祀は秘伝として口伝でのみ守矢家に一子相伝で伝承されていましたが、1871年(明治4年)の太政官布告により神職の世襲制が廃止され神長官職はなくなりました。残念ながら守矢家の現ご当主である78代目の守矢早苗さんには伝承されていないのだそうです。秘伝の神事は途絶えてしまいましたが、神長官家に関することを伝承されています。守矢家の敷地の一部は茅野市が管理し、神長官守矢資料館として一般に公開されています。
洩矢神の祭祀は真夜中にこの祈祷殿で伝承されたといわれています
資料館の建築は建築史家の藤森照信先生のデビュー。藤森照信先生の実家はこのすぐ近くで守矢早苗さんとは幼馴染のご縁でつくられたのだそう。
企画展「真田と諏訪 信濃の武将たち」(〜10月10日まで)が開催中でした。
旧武田領を巡る争い天正壬午の乱のときに真田昌幸が守矢氏にだした書状をはじめ、織田信長、武田勝頼から守矢氏宛の書状も。
常設展示は、毎4月15日(江戸時代までは旧暦の3月酉の日)に行われる御頭祭の供物が
再現されています。かつては75頭の鹿をお供えしたとのことですが、今は鹿肉と剥製の鹿の頭を供えるのだそうです。
75頭の鹿の中には必ず1頭耳が裂かれている鹿がいて、それは高野の耳裂き鹿といわれる諏訪の七不思議のひとつ。
御頭祭は、かつては御神(おこう)と呼ばれる8歳くらいの紅の着物を着た子供を御贄柱に縛りつけ神官が小刀を振ると馬に乗った使者が現れ開放されるという神事があり、この神事と守屋山が古代イスラエルの話に相似していることから様々な説があります。
資料館から奥にある原っぱへすすむと、ミシャグジを祀っているミシャグジ社があります。
自然の中にキリッとした空気感があります。この感覚、アイヌの二風谷に近いように感じました。あの時は冬、こちらは真夏、なのに不思議です。
さらに丘を登ると、宇宙船のような不思議なものが浮かんでいる…(゚_゚i)
藤森照信建築の茶室、空飛ぶ泥舟と高過庵です
こちらが空飛ぶ泥船のにじり口
ジブリにでてきそう…
脚が塔のようです
高過庵はやっぱり高すぎるということかと
太古の神の末裔が住むところに、ジブリの世界観。
いつみても不思議な光景ですが、和みます。
菊文様の越後型の絽小紋に古裂の切り嵌めに柘榴と小鳥の刺繍のアンティークの夏帯 / 9月の着物と帯
9月の着物と帯は何を着たら良いのか…というご質問をいただきますが、着物に決まりがあるというよりも、<着る目的に合わせる>というのが正しいように思います。
日常のきものは自分のための装いですので、その日の気候や気温に合わせて自由で良いと思っています。かつては自分の中で、薄物は重陽の節句までとしておりましたが、温暖化に伴って、中秋の名月まで、お彼岸までと、薄物や麻を着用する時季が長くなっています。今年はどうするか…、お天道様次第です。
ちなみに準礼装以上の場合、フォーマルの装いは自分のためのものではなく、礼節と礼儀を伴うものですので、その会に合わせます。9月は単衣に夏帯か単衣用の帯が基本ですが、列席者が袷の帯が多いようでしたらそれにあわせております。お茶席はお茶の流儀にあわせて、結婚式は婚礼衣装や黒留袖などが袷ですので列席者も袷で揃える場合が多いなど、現在は式典での装いも変わりつつあります。
某婦人雑誌の読者招待イベントへ
こういう集まりですと、暑くても単衣のきものを着たほうがいいかしら…と思わなくもなかったのですが、最高気温33℃! 無理をすることはやめました。
とても良いイベントでした:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
詳細は後日に。
【9月5日の装い】東京◇晴れ(湿度59%、青空!) / 最低気温25℃ 最高気温33℃
菊文様の越後型の絽小紋に古裂の切り嵌めに柘榴と小鳥の刺繍のアンティークの夏帯をコーディネート
素材は夏ものですが、文様で秋を表現。菊も柘榴も秋の意匠です。
大井川葛布の葛布のパラソル。
葛布は独特の光沢があるので紬から染めものまでコーディネートできます。
紗地に名物裂の古裂地をパッチーワークしてその上から刺繍がされている凝った帯
柘榴は初秋に実をつけます
帯あげは桔梗柄の絽ちりめん、細めに組んでいただいた帯〆は藤岡組紐
竹籠は松枝忍の初期の作品
木曽 奈良井宿へ
中山道の宿場町、奈良井宿へ
総檜づくりの橋脚をもたない太鼓橋です
ノスタルジックで素敵〜
奈良井宿は木曽路11宿の中でも最も標高が高い宿場町。重要伝統的建造物群保存地区に指定されています
水が豊かのようで、各所に湧き水の井戸がありました
スイカが冷やされていました
観光地ではありますが観光地化されていず、人々の暮らしが息づいています
この日はお盆休みのこともあって、観光客や帰省する人が多く、街並にはたくさんの人が歩いていましたが、普段はもっとひっそりとしているのだそう
山間の村のお盆はまことに情緒ある光景
盆提灯が風情をより醸しだしていますね
御簾が下がっている夏の室礼も良い感じ♪
奈良井宿の典型的な民家つくりの中村邸
元櫛問屋さんなのだそう
江戸時代、女性への旅のお土産の定番だった櫛
漆塗りの櫛は奈良井宿の名産品でもあります
奈良井宿の一番南にある鎮神社
境内からは奈良井宿が見渡せます
お盆でお休みのお食事処が多かったこともあり、お昼はどこも大行列でした(゚_゚i)
食事と甘味処のこころ音さんへ
奈良井宿名物のとうじそば
山菜と茸の出汁たっぷりの汁に手打ちの玄そばをとうじ籠で湯がいていただきます♪
食後のデザートでは飽き足らず…、五平餅の駒屋さんへ
奈良井宿の五平餅のタレは、胡麻、荏胡麻、味噌
荏胡麻は胡麻に似ていますが、ゴマ科ではなくシソ科の植物。紫蘇の味がしました
そして、木曽名産のさるなしソフトクリームを
さるなしはキウイフルーツの原型といわれるマタタビ科の植物。木曽地方では今でも食されているのだそうです。
確かに、キウイに似ていますが、クリームの甘さに負けていたかな
この日は山間の旅とはいえ猛暑日で、とても暑かったのですが癒されました。
最後は食べ歩きレポになってしまいましたが、夏の信州の旅レポはコンプリート!
次は、祇園祭、初夏の宮崎の旅レポへとつづきます。
祇園祭(7月16日) 宵山 会所巡り 保昌山•孟宗山 / 2016年祇園祭 その16
夏が過ぎてしまいましたが、祇園祭レポです。
祇園祭(7月15日) 会所巡り♪放下鉾 、その他 / 2016年祇園祭 その15 のつづき
ようやく「宵山(よいやま)」。山鉾巡行の前夜祭です。各鉾の山鉾が出揃い、祇園囃子が奏でられます。四条通りは歩行者天国となり、山鉾周辺には露店が建ち並びます。
宵山の夕方から、廻り残した山桙巡り〜♪
栗山紅型工房の西田裕子さんにご案内いただきました。(というより私が連れ回しちゃった^^;)
レポをみてくださっている方もお忘れになったかもしれませんので、再度山桙の位置マップを。保昌山だけは烏丸の東南にあって離れているのです。
平井保昌と和泉式部の恋物語がテーマとなっています
水引は「雲龍波濤文様に鳳凰、鶴、虎」孔雀の羽根が縫いこまれた珍しいもの
中国の明時代の官服をつかって水引にしたものだそう
「孟宗山」
中国の説話「二十四孝」から、呉の国の孟宗が母のために雪の中の竹薮からタケノコを掘りそれを食べた母の病気が治癒した話。孟宗竹の由来です。
見送りは竹内栖鳳筆「孟宗竹薮林図」。鮮やかな色彩の中で墨描きの竹はインパクト強し。
胴掛は平山郁夫原画「砂漠駱駝行き」の綴錦
日本画の巨匠の作品を、こういった形でみるのも面白い。祇園祭ならではの醍醐味ですね。
つづきます〜