「cosmogeny 進化 狩野智宏展」 元麻布ギャラリーにて開催中(~30日まで)
薄暗い中にギュッとつまった渦巻銀河が浮かんでいるかのよう…
展示台には水が張られていて、水面に表れるもう1つの渦巻銀河は波動で揺らぎます。
じーっと見つめていると引込まれそう…。
というより引込まれたい~:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
遥か銀河の彼方に誘ってくれそうです…。
ワープできそう
作品を見ながら飲みたい!という要望にお答えして…、ということで、
この日の夜は作品を眺めつつまったり飲む会が開かれました~
ソウルフルな歌声と♪
伸びやかに舞われた踊り
皆で踊って~
ガラス造形作家の狩野智宏先生と奥さまのガラス作家の小上馬香織さんと
こちらの作品はこの展覧会の後、上海にあるガラス博物館に嫁ぐのだそう~。
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【9月28日の装い】東京◇晴れ(湿度53%、暑かった!) / 最低気温18℃ 最高気温28℃
奥順の黒地の御所解文様の夏結城にれえすの花の兎に木賊の刺繍帯をコーディネート
黒地の絽の長襦袢を着ていると透け感が抑えられて単衣のように着られます。
これ、涼しくて軽くて楽で良いです~ヾ(@°▽°@)ノ
透け感の少ない絽の帯あげは加藤萬、帯〆は五嶋組紐
木賊に兎は間接的に月を連想させる文様。
能「木賊」の中では、信州の園原という木賊の原っぱの中で月の代わりに兎が登場します。
「cosmogony」宇宙進化論? 宇宙なら月、月なら兎ということで、この装いにしてみました。
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cosmogeny 進化 狩野智宏展 at 元麻布ギャラリー / 黒地夏結城に木賊に兎の刺繍帯
旧林家住宅と製糸家のまとめ/ 岡谷近代化産業遺跡群巡り その2
丸山タンク~金上繭倉庫~旧岡谷市役所庁舎~旧山一林組 / 岡谷近代化産業遺跡群巡り その1
のつづき
糸の都と謳われた岡谷は製糸家といわれる、製糸業に携わった偉人を輩出しています。
ざっくりとですが、まとめてみましたφ(.. )
●片倉兼太郎●
富岡製糸場を「貸さない、売らない、壊さない」の方針を貫き、世界遺産登録にまでもっていった
片倉工業の前身である片倉組(片倉財閥)の創業者。
●武居代次郎●
フランス式とイタリア式を折衷した諏訪式繰糸機を開発。中山社を創業。
●尾澤金左衛門●
製糸結社の開明社を組織、共同揚返による品質管理を徹底させ海外市場に信頼を得えた功労者。
明治18年に尾澤金左衛門の住宅が火事になり貯蔵していた繭が焼失したことがきっかけとなり、
岡谷の街中には漆喰の壁の繭倉庫がつくられるようになりました。
●林國蔵●
一山力林製糸所を創業。
製糸技術の改良や時代に先駆けての中国産の繭の輸入、製糸工場の燃料不足の改良のために
石炭の採掘にも着手します。そして銃砲火薬店を経営し、こちらは現在もつづいています。
林國蔵が暮らしていた住居は国の重要文化財にも指定されている近代化産業遺産のひとつです。
さて、岡谷近代化産業遺産群巡りのつづきです(^-^)/
●旧林家住宅●
玄関へつづく石畳と塀には風情があります。紫陽花の咲く頃に再訪したい。
門は閉まっていますが、勝手口にあるインターフォンから見学の旨を伝えましょう。
休館だと思って帰ってしまう方、いるみたいですね…(^_^;)
1907年(明治40年)に建築された木造切り妻造り瓦葺きの2階建ての主屋。
玄関から入ると正面に大きな躑躅のある中庭が見えます。
精巧な欄間彫刻
主屋と離れを結ぶ回廊からの中庭の景観も見事
離れには、幻ともいわれる金唐革紙の壁紙が貼り巡らされたお部屋があります。
金唐紙とは、唐草や花鳥などの文様を型をつかって革の表面に浮き上がらせて
金泥その他で彩色した金唐革紙の革を和紙をつかって代用したもの。
金箔もつかわれていますが、決して派手ではなく重厚感のある品の良さです
その復元品がこちら
和紙に金属箔を押し丸版木に巻き付けて刷毛で打ち込んで転写します。
この離れは、座敷、茶室、土蔵、洋館とつながっています。
洋館にあった日本画には諏訪湖畔から見える富士山が描かれていました。
洋館の玄関は駅側にあり、通常のお客様はこちらから出入りしていたとのこと。
主屋の西側からは繭蔵がみえます。
糸車もそのまま残っているようですね。
日本の製糸業発展の基盤をつくりあげた林國蔵。
その住居は単なる住まいではなく、社交の場であったことが今に伝わっています。
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衣更え / 日常のきものと準礼装(伊勢神宮の御垣内参拝の装い)
今年は秋がくるのが来るのが早かった
ですが、お彼岸過ぎてから暑さがぶり返したように思います(^_^;)
日常のきものは無理せず、9月でも暑い日は透け感のない薄物で通していました。
9月は半衿、帯が夏仕様ですのでそれが可能なのですが、10月からは半衿や帯は冬仕様
となりますので、暑い日は単衣で過ごします。
365日きもの生活をはじめると、需要が大きくなるのは単衣のきものです。
基本的に10月1日からは袷となります。
日常に着るきものは、しきたりにとらわれず自由に着ていますが、
準礼装や礼装はどんなに暑くても、衣更えのしきたりに従っています。
2012年10月1日の伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の御垣内参拝での装い
台風一過の次の日で、最低気温22℃最高気温28℃の暑さでしたが、袷の準礼装です。
2012年10月2日の伊勢神宮内宮(皇大神宮)での御垣内参拝と御神楽奉納の装い
伊勢神宮は参道が広く長く…、そして、陽射しの照り返しも強く、
このときに着たきものは、汗だく、さらに歩きすぎて八掛も擦り切れてしまい、
仕立て直しと悉皆をプロにお願いすることになりました。
メンテナンスのことを考えると、着るのが勿体ない…と正直思ってしまうのですが、
準礼装や礼装は、自分の楽しみのためだけに装うお洒落、とは違うものです。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
この時季の恒例ですが、衣更えについて、まとめておきますφ(.. )
衣更えの習慣はかつては更衣といわれ平安時代の宮中行事として始まったとされています。
当初は中国の慣習に倣い旧暦の4月1日と10月1日に夏装束と冬装束の衣更えが行われ
ていました。
装束は重ね着であり重ね色目には四季通用の雑と春夏秋冬があります。
重ね色目には、袷の表と裏の生地の配色を楽しむ重ね色目、五衣のように重ね着を
したときのかさね色目、経糸と緯糸の色で表す織色の重ね色目、があります。
江戸時代の武家社会になると、端午の節句と重陽の節句を区切りに年4回行われるようになり、
旧暦4月1日~5月4日は袷(表地に裏のついているきもの)
旧暦5月5日~8月31日は帷子(裏のない麻織物)、単衣(裏をつけない絹,もしくは木綿のきもの)
旧暦9月1日~9月8日は袷(表地に裏のついているきもの)
旧暦9月9日~3月31日は綿入れ(表地と裏の間に薄綿をいれたもの)
綿入れの着用期間が長いことからも、現代よりも寒かったであろうことがわかります。
明治に入ると西洋化政策がすすみ、明治5年11月9日には改暦が発表され23日後の
明治5年12月3日を明治6年1月1日と改めて、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦されます。
明治政府は、役人.軍人.警察官の制服の衣替えを新暦の6月1日~9月30日を夏服、
10月1日~5月31日を冬服と制定しました。
現在のきものの衣更えの習慣は、明治政府の定めた洋服の衣替えに倣ったものです。
6月1日~30日、9月1日~30日は単衣(裏地のないきもの、絽ちりめん、紗あわせ)
7月1日~8月31日は薄物(麻、絽、紗、透ける織物)
10月1日~5月31日は袷(裏地のついているきもの)
秋はきものの展示会や美術展の最盛期。
岡谷レポ、米沢レポ、他にも色々とありますが、レポートしていきます(^-^)/
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女児の装束 「汗衫(かざみ)」 / 衣紋道高倉流たかくら会
2014年の重陽の節句は10月2日となります。
昨晩、重陽の節句行事でつくった菊被綿を菊に被せておいたもので顔を拭ってみました(〃∇〃)
若返りなるか…? しかし、季節の変わり目だからか体調悪くバタンキューです
重陽の節句行事での高倉流宗会頭でいらっしゃる仙石宗久先生のお話のつづき
童女の正装である汗衫(かざみ)装束と総角(みずら)についてのお話φ(.. )
女性の通過儀礼で男児の元服に相当するのが、女児の裳着(もぎ)。
正装である十二単(五衣唐衣裳)にの裳をつけます。
成人前の童女は裳を纏うことはできませんので、この十二単にかわる晴れ着として
発達したのが汗衫です。元来は汗取りとして着用されたことが汗衫の由来。
濃色(紫)の長袴(張袴)に白の表袴(うえのはかま)を重ねます。
※これは他の装束には見られない特徴のひとつ
きもの文化検定を受けられる方は、抑えておきましょう。
こういった独自の特徴があるものは問題としてつくりやすいです。
勉強をするときは自分でも問題をつくってみるのが効果的。私大の受験対策と同じです。
単(ひとえ)、衵(あこめ)、打衣(うちぎぬ)、と着装していきます。
一番上に汗衫の袍、袍には垂領(たりくび)と盤領(あげくび)の二形式があります。
こちらは盤領の袍。さらに石帯または当帯でとめます。
汗衫の袍は十二単(五衣唐衣裳)の裳のように長いもので長袴よりもさらに後に引いています。
髪型は総角(みずら)
紅の布地に転生をあらわす蝶と鳥文様、紫と白の段染めの紐をつかいます。
汗衫は殿上にあがる童女の晴れの装束でしたが、一方で宿直装束となって簡略化した
構成のものもあります。
現在は葵祭の馬に乗った騎女の装束としてみることができます。
江戸時代の染織史を学ぶと必ずでてくる、江戸時代のファッションリーダーともいえる、
二代将軍徳川秀忠と江の娘の東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)が
後水尾天皇のもとへ入内するときに、和子のために汗衫と十二単が同時に誂えられた
という資料が残っています。
装束は平安期だけのものと思われがちですが、時代とともに変遷しつつ、現在まで
残っているものもあり、皇室行事や神事で知ることができます。
この辺りも調べたすと、際限なく楽しいですね♪
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養蚕〜近代製糸業と岡谷〜岡谷の工女 岡谷蚕糸博物館 その1
お待たせいたしました!
シルクファクト岡谷こと岡谷蚕糸博物館レポートです(^-^)/
日本の近代化に貢献した製糸業。その業績を後世に伝え、今後の産業発展に役立てるようにと
1964年(昭和39年)に市立岡谷蚕糸博物館が開館しました。製糸機械や史料を約3万点を所蔵。
その中には、1872年(明治5年)富岡製糸場の創業時に導入されたフランス式繰糸機もあります。
そして開館から半世紀を経た、2014年8月に旧蚕糸試験場の跡地に場所を移し、
製糸工場(宮坂製糸場)を併設し動態展示をすることで、絹と製糸業の真実を発信する
世界にも類のない博物館としてリニューアルオープンしました。
シルクファクトとは、factory(工場)とfact(真実)を追求し発信することから。
駐車場にある枝垂桑の木。
中では蚕が飼われていて桑の葉をあげることもできます。
●回転蔟(かいてんまぶし)●
蚕は1マスずつ中で繭をつくります。蚕には上に登ろうとする修正があるので、
吊り下げられている蔟は上に登っていった蚕の重みで自動的に回転します。
これを生かして、蔟の全体に均質に繭をつくらせているのです。
●絹の起源と伝播•蚕から絹製品になるまで●
きもの1反(680g)=桑の葉 約70g、蚕 約2,300頭、繭 2,200粒(4.7kg)、生糸900g。
養蚕、製糸、染織、生糸から絹織物までをわかりやすくパネル展示。
先練りと後練りの違いと特徴も詳細に説明されていました。
●近代製糸業と岡谷●
1859年(安政6年)に横浜が開港されると、日本から大量の生糸と蚕種が輸出されるようになります。
当時ヨーロッパでは微粒子病といわれる蚕の病気が大流行し、養蚕は壊滅状態であったため、
大量の蚕種と生糸が必要とされました。
日本の製糸は座繰りによって行なわれていました。
座繰り製糸は養蚕農家ごとに蚕の品種や座繰りのやり方が違い、生産量も少なく、品質の向上
と生産能率をあげるために西洋式の機械と技術の導入が試みられます。
そして岡谷では、イタリア式とフランス式の繰糸機の折衷式ともいえる、諏訪繰糸機がつくられます。
1873年(明治6年)片倉市助が10人繰り座繰り製糸を開始。
1875年(明治8年)武居代次郎が諏訪式繰糸機による中山社を創業。
1878年(明治11年)片倉兼太郎が垣外製糸(32釜)を創業。
第一次世界大戦の影響によりヨーロッパの織物産業が衰退し、アメリカ向けの輸出が主流になる。
1932年(昭和7年)アメリカの絹業界の生糸93%を日本が占め、世界一の生糸供給国となる。
1938年(昭和13年)アメリカのデュポン社のナイロン製造がはじまり、急速に絹の輸出が
なくなっていく。ちなみにナイロンのキャッチフレーズは「鋼鉄よりも強く蜘蛛の糸より細い」
そして、戦時体制となり製糸工場の多くが軍需工場となり製糸産業は衰退の一途を辿ります。
●岡谷の工女●
岡谷の工女といえば、山本茂美の「ああ野麦峠」が有名。
1979年(昭和54年)に、大竹しのぶ主演で映画化され大ヒットとなりました。
「女工哀史」と「ああ野麦峠」の印象があまりにも強いので、劣悪な労働条件のもとで
苦労ばかりさせられたと思われがちですが、あながちそうともいえません。
ちなみに、野麦峠とよばれる街道には熊笹が生い茂っていて、熊笹の実は粉にして食する
ことができ野麦のようだったということから、野麦峠といわれるようになったとか。
最盛期の工女は約3万人ともいわれ、岡谷の人口の3分の1が地方から出稼ぎにくる
工女だったといいます。
熟練の工女には100円工女といわれる、年収が100円を超える人もいたそう。
当時100円あれば、畑1反付きで家が立つといわれていました。
労働条件は過酷だったようすですが、寄宿舎での生活は、外出許可をもらって買い物する
ことも可能であり、お米も白米であったのだそうです。
「ああ野麦峠」には実話も含まれていますが(山一争議)、完全ルポタージュではなく
ある層からの共感を得やすいよう書かれたフィクションと捉えた方がよさそうです。
ですが、映画で描かれたその時代背景と繰糸シーンの再現など興味深いもの。
アメリカに不況が訪れ生糸の輸出がなくなり国内用の生糸生産で労働条件が悪化という
あたりは、生糸の歴史を学ぶとでてくるところです。
工女の仕事は、煮た繭から糸口を引き出して一定の太さの生糸になるように手で繭糸を
たすというものです。繰糸にできない繭を分ける選繭、出来上がった生糸を大枠に巻き返す
揚げ返しを行なうという作業もありました。
次は、繰糸機についてまとめますφ(.. )
※岡谷蚕糸博物館内での撮影及び掲載の許可をいただいております。
撮影は学芸員の方、立ち会いのもとでさせていただきました。
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染の北川の萩文様の単衣小紋にれえすの花の栗鼠の刺繍帯 / 染織文化講座 &や万本遊幾実演
今年の秋は過ごしやすい~o(^-^)o~と、思っていたら…。
袷への衣更えの日を迎えた翌々日、なんと最高気温が30℃
10月1日の衣更えから、きものは単衣でも、半衿、帯、帯あげは袷仕様にしているので、
薄物では生地の質感のバランスがとれず、単衣の小紋にいたしました。
…が、それでも暑かったです(x_x;)
う~ん、透け感の少ない夏大島や夏結城に博多帯とかなら違和感なかったかも。
【10月3日の装い】東京◇晴れ(湿度61%、ムシムシ)最低気温22℃ 最高気温30℃
染の北川の萩文様の単衣小紋にれえすの花の栗鼠の刺繍帯をコーディネート
鬼シボ縮緬の単衣。身体に沿いやすく好きな生地ですが、30℃では単衣でも暑い
れえすの花の栗鼠と団栗の刺繍帯
栗鼠の毛並みの濃淡がたっぷりとした糸で表現されている秋のお気に入りの帯
縮緬の無地の帯あげは加藤萬、帯〆は龍工房、根付紐は藤岡組紐、根付は海馬ガラス
バッグは松枝忍、ぞうりは菱屋カレンブロッソでのお誂え
日傘は遊中川×前原光栄商店
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染織文化講座、丸山伸彦先生のお話は、型による本藍染めの中形と型紙について。
江戸時代の文献と朝田家に伝わる型紙から、小紋と中形の違い、中形と浴衣についてなど。
日本工芸会の松原伸生先生のお話は、長板中形の工程、染めにつかわれる型紙と糊
について、染色方法など。
両面に糊を置いて藍甕に浸け、白場をスカッとだす、長板中形。
私は夏にシャッキリと浴衣として着こなすのが好みです(〃∇〃)
勝手な妄想で、着てみたいと思った作品。主型と消し型の二枚の型紙をつかった長板中形。
しかし、長板中形とは技法の名前であり、木綿地とは限らないとのこと。
松原先生の作品はどこか洗練されていて、単衣のきものとして楽しめそうなものが多いです。
第61回日本伝統工芸展で高松宮賞を受賞された、松原先生の長板中形の作品は
夏大島の生地に染められていました。夏大島の糊置きは大変なのだそう。
こちらは同じ型をつかって両面糊置きされた反物
詳細は、染織文化講座
の講座記録にあげます。こちら☆
※10月中旬までに随時の予定。
松原伸生先生と
工芸会の先生方の中では、若手でいらっしゃいます。受講生の中で美男子だと話題でした!
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
染織文化講座の後は、渋谷玉川屋さんにて開催中のや万本遊幾先生の糊置き実演を見学
(~今日までです!)
彩密友禅らしい、髪の毛のところを糊置き中。
ここは糸目糊が白いと白髪のようになってしまうので黒を混ぜた灰色の糊を置くのだそう。
糸目糊の色は4色使い分けていらっしゃいました。
髪の毛は毛先に向けて糊をひいていくので、逆さまから糊置き。
私も彩密友禅に挑戦!? ←裏紙にひいただけ
あぅ…、出だしの糊がぼてっとし、線はニョロニョロ(°д°;)
緩やかソバージュになってしまぅ。
奥のまっすぐな3本の線はや万本先生、手前のニョロニョロが私がひいた糊。
長板中形の両面糊置き、友禅の糸目糊置き、
どちらも素晴らしい技法。
う~ん、知れば知るほど、学べば学ぶほどに着てみたくなる…:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
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きもの文化検定1級対策 / 諏訪式繰糸機 フランス式とイタリア式の違い 岡谷蚕糸博物館 その2
養蚕~近代製糸業と岡谷~岡谷の工女 / 岡谷蚕糸博物館 その1
のつづき
洋式の繰糸機は、1870年(明治3年)に前橋藩がスイス人ミューラーの指導のもと
イタリア式繰糸機を導入したのが最初です。1871年(明治4年)江戸期の糸割符商人の
豪商井筒屋は明治に小野組となり、小野善助がイタリー式の築地製糸場を開設しました。
1872年(明治5年)の富岡製糸場創業時に導入された300釜のフランス式繰糸機は
岡谷蚕糸博物館にあります。
●フランス式繰糸器●
煮繭と繰糸を工女ひとりで行いう1釜2条繰りの撚り掛けはフランス式といわれる共撚り式。
共撚り式とは、引き出した数本の繭糸を合わせて(集緒)2筋の隣同士の糸を互いに絡ませて
糸の張り力を均衡させ抱き合わせるように撚りを掛け繰糸する方法のことです。
輸入時は大枠へ直接巻き取る直繰式だったものを、富岡製糸場の創業時には、湿度が
高い日本に合わせて、小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式に変更します。
1896年(明治29年)には4条繰り共撚式からケンネル式に転換し1942年(昭和17年)
御法川式多条式に入れ替えるまでつかわれました。
通常は新式の機械になるときは旧式のものは処分されてしまいますが、当時の富岡製糸場の
経営者であった片倉工業は、フランス式繰糸機2釜を上諏訪(岡谷の諏訪湖対岸)にある
片倉館の懐古館にて保存することにします。その後、岡谷蚕糸博物館へ寄贈。
それ故に、フランスでも残っていないフランス式繰糸機が今日まで残っているのです。
富岡製糸場の創業時にフランスから導入した水分検査器。
鶴亀と松竹梅という吉祥文様が西洋風に描かれていました。そうかこうなるのね…(・_・;)
背面はフランスの田園風景でした。
生糸は重量で取引されますが、絹は吸水性が高いために、つくられるときの条件や湿度
などによって重量が一定にならないことが問題となります。
そのため生糸の取引にあたっては国が定めた一定の水分率を含んだ重量にされました。
この水分率を「公定水分率」といいます。生糸は11% ←きもの文化検定1級問題向き
●諏訪式繰糸機●
台や枠だけでなく給水用の配管も含めてすべて木製、カランは竹筒、釜は陶器。
体格の小さい日本女性の工女にあうようにサイズもコンパクトにできています。
配管は鉄製。三方になっている給蒸しカランによって左右の鍋に給蒸される仕組みだそう。
小野組の築地製糸場で操業していたイタリー式繰糸の技術は、1872年(明治5年)に
上諏訪の深山田製糸場に導入されます。そして1874年(明治7年)に松代(現長野県千曲市)
の六工社は富岡製糸場のフランス式繰糸の技術を導入しました。
1875年(明治8年)平野村(現岡谷市)の中山社の武居代次郎らは、深山田製糸場と六工社
の技術を折衷し、技術改良につとめ、フランス式繰糸機とイタリー式繰糸機の折衷といえる、
諏訪式繰糸機の開発に成功するのです。
日本の風土と日本人の工女にあった、諏訪式繰糸機は急速に全国に普及し主流となります。
そして日本の近代化に大きく貢献することになります。
フランス式とイタリー式の折衷である諏訪式を説明する前におさらいφ(.. )
諏訪式にいたるまでの流れです。
フランス式とイタリー式の大きな違いは糸の撚り掛けです。糸に取って撚りは重要!
生糸づくりは鍋に入った煮た繭から数本の糸を引き出して束ね(集緒)、
それをセリシンで粘着させ撚りをかけ1本の糸にします。
●イタリア式(イタリー式) 繰糸機●
1870年(明治3年)前橋藩→1871年(明治4年)築地製糸場→1872年(明治5年)深山田製糸場
繰糸はケンネル式。
数本引き出した繭糸を1つ穴の集緒器を透して数本をあわせて1筋の糸にし、その糸を鼓車を
通過させて抱き合わせます。
ケンネル式は抱合に優れ生産性が高いという利点があり。
糸を煮る繰るは分担で行なう煮繰分業方式。
直接大枠に巻き取る直繰式。
ケンネル式は抱合に優れ生産性が高いという利点があり。
●フランス式繰糸機●
1872年(明治5年)富岡製糸場→1874年(明治7年)六工社
繰糸は共撚り式。
集緒した2筋の糸を互いに絡ませて糸の張り力を均衡させ抱き合わせるように繰糸する方法。
糸を煮る繰るを工女1人で行なう煮繰兼業方式。
小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式。
共撚り式は2本の糸の張り力が均衡でないと切れてしまう、操作が難しい、生産性が悪い。
●諏訪式繰糸機●
1875年(明治8年)中山社
繰糸はケンネル式。(イタリア式)
糸を煮る繰るを工女1人で行なう煮繰兼業方式。(フランス式)
小枠に巻き取ってから大枠に巻き返す再繰式。(フランス式)
イタリア式とフランス式の利点を取った仕組みづくりとなっています
工女がひとりでも作業がしやすいよう考慮された構成の繰糸機は木製と陶器でつくられ、
大きさはコンパクト。諏訪式繰糸機は2条繰りからその後条数を増やし昭和初期まで
つかわれ、日本の殖産興業に多大な貢献を果たすことになるのです。
※岡谷蚕糸博物館内での撮影及び「きものカンタービレ♪」への許可をいただいております。
学芸員の方、立ち会いのもと撮影させていただいております。
●関連記事●
富岡製糸場 ~繰糸場と生糸づくり~/ 染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その3
丸山タンク~金上繭倉庫~旧岡谷市役所庁舎~旧山一林組 / 岡谷近代化産業遺跡群巡り その1
旧林家住宅と製糸家のまとめ/ 岡谷近代化産業遺跡群巡り その2
大日本蚕糸会の武井先生のお話、岡谷蚕糸博物館、日本製糸技術経営指導協会、
東京農工大学の資料を参考にさせていただきました。
多条繰糸機、その他、今も操業中!宮坂製糸場の動態展示は別記事で(^-^)/
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「型紙の美 〜朝田家型紙コレクション〜」at 石神井公園ふるさと文化館
台風の暴風雨の中、 石神井公園ふるさと文化館へ
「型紙の美 ~朝田家型紙コレクション~」(~11月16日まで)
宮津藩のお抱え染め師であった朝田家の型紙と染め見本帖や裃などが展示されています。
朝田家は丹後の地で初代朝田利右衛門から三代にわたって紺屋をされた家です。
丹後の茶六別館に行ったとき、こちらが朝田家と教えていただいたのですが、丹後半島の
宮津湾近くの風光明媚なところでした。
朝田家の型紙の特徴は江戸天保年間から明治30年代までつかわれたものだと特定できる
のが大きな特徴です。(丸山先生によると古い型紙で年代出自が確実なのは稀なことだそう)
ガラスに挟んで展示されている型紙は文様がクッキリとわかります。
二枚型の主型と消し型の並列展示なども面白い
朝田家伝来の裃
染め見本帳と染め見本の反物
染織文化講座の講座記録でも書きますが、
型紙は文様全体がどこか繫がっていないと抜けてしまいます。繋がりが少なければ型紙は
不安定になってしまい、糊置きはできません。縞などは糸入れによって文様を安定させますが、
囲うように繫がった丸や白地に散らした点の文様は一枚の型紙で彫ることはできないのです。
そのために、ひとつの文様の7分3分か6分4分に分けて2枚の型紙に彫ります。
これを「二枚型」といいます。消し型が主型を追っかけることから「追掛型」ともいいます。
(加賀小紋の坂口幸一先生の二枚白や竺仙の文久小紋も二枚型です。)
「つり」といわれる文様の繋を残して文様が多く彫られた型紙は「主型」
主型のつりを消す型紙は「消し型」
主型で糊を置き、その上から消し型で糊を重ね置くことで文様が完成します。
紗綾形と貝の中の細かい点だとわかりやすいでしょうか?
下が主型のみで染めたものです。
型紙につかわれる道具の展示
型彫師の増井一平先生のものが展示されていました。
突き彫り用の板には穴があいていています。
この上に地紙を置いて、刃先を上下させ前方に刃を押し出しながら彫り進めます。
型紙地は「生紙」と「二度室入り」したものがあります。
「生紙」は柿渋を塗った和紙を天日乾燥させさらに2年間寝かせたもの
「二度室入り」は柿渋を塗った和紙を室に入れて大鋸屑で燻煙し乾燥させたもの
生紙はしっとりとして厚みがあるけど柔らかい。室入りの紙はコピー用紙に近い感じ?
江戸時代の型紙は突き彫りの技法で彫られるものが主ですが、突き彫りで彫るには
生紙でないと難しとされています。増井一平先生は生紙を6枚重ねて彫られます。
現在は生紙をつくるところがなくなってきているのが現状なのだそうです。
台風の中でかけたのは、丸山伸彦先生の講演会があったのです。
染織文化講座を含めて3日間ほぼ同じテーマでの講演だったのですが、内容が濃すぎて
3日目も先生が話したりないことは終わらないまま…。資料は増えていましたが話が…(-。-;)
丸山先生、染織文化講座は泊まり込みで合宿にしませんか?
そして会場には型彫師の増井一平先生ご夫妻もいらしていました。
なので増井一平「雨音」を着姿をお見せしたかったのです(〃∇〃)
たくさんの方からカメラを向けられて二人の視線があっていません…(・_・;)
【10月5日の装い】東京◇暴風雨(台風の暴風雨、湿度MAX) /最低気温17℃ 最高気温22℃
増井一平「雨音」に龍村美術織物の織なごや帯をコーディネート。
雨の日にショパンのソナタと雨の線が浮きでた「雨音」を纏うというのは、
しっとりとしてとても良いものです
…、といいたいところなのですが、
こんな暴風雨では雨音がジャガジャガしていて車移動でも優雅からほど遠い。
帯あげにも雨の線、帯〆は龍工房
暴風雨の中では、撮影する気力が今ひとつ…。なのでこれは別の日のコーデ写真。
傘はHANWAY、雨ぞうりは中野スズミ
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「代々流れるもの / 女護島より〜黄八丈山下家母娘三代特別展〜」 at シルクラブ
毎回、卓越したセンスの展示会が開催されるシルクラブ。
その基である中野山田屋さんの創立120周年を記念して、
「代々流れるもの/女護島より~黄八丈山下家母娘三代特別展」が開催中です(~10月9日まで)
山下誉先生による「八丈島 カッペタと地機について」のレクチャーの開催予定だった
10月6日は台風18号が関東を直撃
これは行けないかな…と断念しかけたところ、午後からは洗い流されたかのように
スカッと晴れたので、喜び勇んででかけました。青空がきれい~♪
が…、八丈島からの飛行機が欠航となり山下誉先生がいらっしゃれないという事態に
黄八丈のおさらいφ(.. )
江戸の町娘が着ていた、黒半衿をつけた黄色い格子柄のきもののイメージが強い黄八丈ですが、
八丈島で織られている絹織物の総称のこと。経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されています。
八丈島に自生する植物だけを用いて糸を染め、織りあげられます。
柄は格子柄と縞柄がほとんどですが、八丈絹といわれる無地や染め分けもあります。
その歴史は古く、鎌倉幕府の執権北条氏に「黄紬」の名で献上された記録が残っています。
江戸幕府には「八丈絹」の名で献上され、大奥の女性たちのきものにも用いられました。
江戸後期には「恋娘昔八丈」という浄瑠璃の衣裳に使われたことから大流行します。
その頃は「八丈縞」といわれており、「黄八丈」の名がついたのは江戸末期のことです。
紬糸をつかって織られるものはわずかで、ほとんどが生糸を用いての織りです。
染料は以下の通り。
黄八丈の黄色は八丈刈安(コブナグサ)を乾燥させたものを煮詰めたフシといわれる煎汁
蔦八丈の樺色はマダミ(タブの木)の生皮を煮詰めたフシといわれる煎汁
黒八丈の黒色は椎(スダジイ)の樹皮を乾燥させたものを煮詰めたフシといわれる煎汁
このフシといわれる煎汁で染めることを煎汁づけ(フシヅケ)、
灰汁で媒染することは灰汁づけ、泥で媒染することは泥づけといます。
黄八丈の現在の主流は綾織(斜文織)のもの。
綾織は、経糸が緯糸2本を渡り、緯糸1本の下を通り、緯糸2本を渡る。
糸の交差点が斜めの線になることから斜文織ともいわれます。
「まるまなこ」
市松
着装すると自然な動きによって陰影が動き何とも美しい光を放つのです。
山下めゆ、八百子、芙美子先生と三代に伝わる黄八丈も展示されていました。
植物染料ならではの色の移り変わりも上品!
cafe LULUさんにて京都オオヤコーヒーの焙煎ドリップコーヒーとデザートを
紅玉と和栗のパフェ。とっても美味でした~(〃∇〃)
そして、7日に山下誉先生がいらっしゃるとお聞きし、夕方再びシルクラブへ。
カッペタ織のことでどうしてもお聞きしたいことがあったのです。
原始機の流れを組むといわれる、カッペタ織は日本最古の織物ともいわれています。
北海道のアッツシ織と似た柱と腰に経糸をしかけて織るというもの。
カッペタとは、叩くという意味がある緯糸を叩き込む大きなヘラのことです。
カッペタ織につかわれている綜絖は片面6枚、裏面6枚。
綜絖が経糸の上下にある二重織りです。
経糸が上下に4本あるよつざしといわれる状態とおっしゃっていました。
表面と裏面が色が反対にでるようになる風通織のような状態になっています。
反端を見ると袋状。
織るのは大変な手間がかかるのですが需要がないため、生産活動は無いに等しいのだそう。
で、私がカッペタだと思っていたこちらの帯。
黄八丈の帯に間違いはないが、正式にはカッペタではないとのこと。
表面と裏面が色が反対にでるようになる風通織なのですが、二重織りになっていないのです。
カッペタだと教わって譲っていただいたのですが…(^_^;) 、一番正確なところは
やはり生産者の方に確認するしかないということでしょう。勉強になりました
山下誉先生と
お忙しいところをお待ちくださいました。感謝申し上げます。ありがとうございました。
八丈島、伺います
そして今、シルクラブではこの会を記念して、国画会と日本工芸会の作家さんの
秀逸な作品群が集められ、見ることができます。
大田和さんにおススメの作家さんを教えていただき、またまたウットリ~(〃∇〃)♪
ああ、会期中にもう一度伺いたい…。
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栗の染め帯に豊作の米俵の古布デコパージュバッグ
【10月8日の装い】東京近郊◇晴れ(湿度55%) / 最低気温16℃ 最高気温24℃
鉄紺地にピンクと白の小絣の西陣御召に栗の描かれた塩瀬の染め帯をコーディネート
こちらの世界も絶滅危惧種…。
射撃歴は20年以上になりますが、若手です(^_^;)
大学時代はライフル射撃もやっておりましたが、現在はクレー射撃のみ。
狩猟免許としてではなく、クレーというお皿を散弾銃で撃つ標的射撃という
スポーツのひとつとしてやっております。鳥や動物の殺傷はできませんので。。。
久々に染織関連でないものの講義を受けました~。
きもの関連でない講習会なので少々抑えめコーディネート。
秋らしい栗の描かれた染め帯
手先とたれ先にもチラッと描かれているのが贅沢~。
久留米絣の古布がデコパージュされた松枝忍のバッグ
秋らしい豊作の様子が描かれています。
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手挽きから座繰り、そして近代製糸へ 岡谷蚕糸博物館 その3
きもの文化検定1級対策 / 諏訪式繰糸機 フランス式とイタリア式の違い 岡谷蚕糸博物館 その2
のつづきです(^-^)/
「きもの文化検定1級 対策」としてるのは、染織関連がユネスコ無形文化遺産に
登録された年は必ずそれに関連した問題が出題されているからです。
どこから問題がでてくるのかわからない1級問題としては山が張りやすい。
今年世界遺産に登録された「富岡製糸場と絹産業遺跡群」に関してはもちろんですが、
それに付随して開国後、欧米列強と肩を並べるための外貨習得の手段であった生糸づくり、
日本の絹について語るなら、日本の近代化に大きく貢献した近代製糸に関しては、
知っておいた方が良いと思います。
糸づくりの変遷を物語る製糸経営史料や繰糸機は、ほぼ岡谷蚕糸博物館が所蔵しています。
江戸時代まで、生糸づくりは手挽きによるものでした。
糸を引き上げて撚りをかけ、糸枠を回して生糸を巻き取ります。
糸が切れると作業を止めて接緒します。
1859年(安政6年)横浜港開港によって海外輸出用の生糸需要が増えると普及したのが
上州座繰り。
糸枠に歯車を組み合わせて回転数を早め効率を高めたもの。
撚り掛けが手作業でなくなったので、糸枠を回しながら接緒が可能。
作業効率が良いので、上州から信州全土へと急速に普及しました。
しかし当初の上州座繰り糸は粗悪品が出回ることとなり、ヨーロッパでの評価が悪く、
様々な品質向上への課題を残します。
そして、洋式の繰糸機の導入が行なわれます。詳細はこちら☆
こちらは昭和初期にイタリアから輸入されたイタリア式繰糸機
繭を煮る糸を繰るは分担で行なう煮繰分業方式、ケンネル式の撚り、大枠へ直接巻き取る
直繰式という明治初期のイタリア式の特徴が残された繰糸機。
生産数を高めるために、2条繰りから4条繰りとなった諏訪式繰糸機。
条数とは生糸を巻き取る糸枠の数のことです。
大正時代からつかわれた、繭を煮る作業専用とされた土鍋式煮繭器。
繭を煮るを専門の繭煮工が担当し繰糸と分業することによって適正な煮繭が行われ
品質の向上が図られます。これにより工女は繰糸に専念することができ多条繰糸となり
生産能率も上がることとなります。
手前にあるのが配繭車という煮た繭を繰糸場に運んだ車。
製糸の革命的な出来事は多条繰糸機の発明です。
繰糸の生産効率を高めるためには、条数を増やし繰り取る速度を速めることになります。
すると1人が2条~4条を繰糸するようになり、さらに繰糸速度が1分間に200~300mと速く
なっていきましたが、速度が速くなると糸は切れやすく、糸質が著しく低下することになります。
御法川直三郎は「品質を損なわない生糸をつくるには、蚕が糸を吐く速度で糸を巻き取れば
いいのでは?」と思いつき、1904年(明治37年)速度を5分の1にし条数を5倍の20条にする
繰糸機の開発に成功しました。
巻き取り速度を遅くするために振動の少ない金属製の精緻な機械になります。
浮き繰りから沈繰りに、接緒は機械式の回転接緒器に。
ふと立ち帰って発想の転換から生まれた多条繰糸機の開発が、自動繰糸機へとつながっていきます。
これは1907年(明治40年)に開発された御法川式多条繰糸機。
20条繰りの多条繰糸機は片倉製糸紡績でいち早く実用化され、その生糸はアメリカで
絶賛されることとなります。アメリカではストッキング用の絹が求められていて、
ミノリカワロウシルクと絶賛されたのだそうです。
織田式、増澤式、郡是式と多条繰糸機が開発されていきます。
多条繰糸機は、日本独自の開発技術として世界に普及し、その革新的な技術は
自動繰糸機へとつながっていきます。
生糸は繭から引き出される糸からつくられます。はじめは生糸の太さの基本は繰糸繭の
粒数を揃える定粒式で、初期の自動繰糸も定粒式からはじまります。
しかし、繭糸は外側の糸が太く内側にいくほど細くなるので、機械的に粒数を揃えるだけでは
糸の太さに斑ができます。
1957年(昭和32年)にプリンス自動車(現ニッサン)農林省蚕糸試験場考案の
「繊度感知器」の工業化に成功します。詳細はこちら☆
繊度感知器は2枚のガラス板の間に目的の隙間をつくりそこへ生糸を透します。
糸が細くなり摩擦抵抗が少なくなるとそれを感知して新たな繭が継ぎ足されます。
これによって定繊度式繊度感知方式が採用され生糸生産の自動化が普及しました。
こちらは、RM型自動繰糸器。
1957年(昭和32年)にプリンス自動車(現ニッサン)が定繊度式繊度感知方式を取り入れ
開発した自動繰糸機です。
※岡谷蚕糸博物館内での撮影及び「きものカンタービレ♪」への許可をいただいております。
学芸員の方、立ち会いのもと撮影させていただいております。
大日本蚕糸会の武井先生のお話、岡谷蚕糸博物館、日本製糸技術経営指導協会、
東京農工大学の資料を参考にさせていただきました。
次は、今も操業中!宮坂製糸場の動態展示です(^-^)/
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染織文化講座•森口邦彦先生 / 志ま亀の青海波に貝文様の小紋に貝文様の塩瀬の染め帯
秋の染織文化講座3日間。
詳細は染織文化講座HP
の講座記録
。 ←10月中にUP予定。
丸山伸彦先生による小袖の形態変化について。
今日のきものの原型である小袖。その形態は、袖幅が狭く、身幅と袵はぐっと広めであり、
立褄は短く、襟先の位置はかなり低めでした。
生地幅(反物の織り幅)の変化に伴って裁断の仕方も袖と襟の裁ち方に変化が生じる、
その背景には装いの美意識の変化があることがわかるお話でした。
そして森口邦彦先生のお話。
森口邦彦先生は「友禅」重要無形文化財保持者(人間国宝)。
故森口華弘先生のご次男であり、親子2代人間国宝です。
パリでグラフィックデザインを学ばれた経験を生かし友禅の世界に新しい道を開かれました。
作品は、伝統的な糸目、堰だし、蒔糊の友禅技法を使いながら、意匠は斬新な幾何学文様。
抽象的な意匠ですが常に立体的に着用した際の美しさを念頭においてつくられています。
森口邦彦先生の第60回日本伝統工芸展出品作「白地位相割付文 実り」
こちらは三越の紙袋のデザインとなったことでも有名です。
【10月10日の装い】東京◇晴れ(湿度51%) / 最低気温18℃ 最高気温28℃
志ま亀の青海波に貝文様の単衣小紋に貝文様の塩瀬の染め帯をコーディネート
貝に貝ですが、貝の中の文様が菊と紅葉と秋らしい文様なのです。
帯あげ、帯〆も志ま亀でトータルコーディネート
日傘はHANWAY
バッグは松枝忍、ぞうりは神田胡蝶
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宮坂製糸所 〜上州式座繰り繰糸、諏訪式座繰り繰糸、自動繰糸〜/ 岡谷蚕糸博物館 その4
手挽きから座繰り、そして近代製糸へ 岡谷蚕糸博物館 その3
のつづき(^-^)/
岡谷蚕糸博物館の魅力は何といっても、現在も操業中である宮坂製糸所が動態展示として
見学できることです。
かつて岡谷は糸の都といわれ300もの製糸工場があり、3万人を超える工女が全国から
集まりました。
日本の生糸生産の3分の1を担っていたのですから、街の賑わいも相当なものだったのでしょう。
高い煙突が立ち並び繭を煮る独特の臭いが街中にあったといいます。
しかしそれらは精密機械工場にとってかわり(一昔前まで東洋のスイスといわれていた)、
その中で宮坂製糸所は唯一の製糸工場として存続しています。
宮坂製糸所は1928年(昭和3年)に創業。年間約1000反分のきもの地を生産されています。
伝統的な繰糸による生糸づくりがされている日本で唯一の製糸工場です。
宮坂製糸所の宮坂照彦社長よりご案内いただきましたヽ(゚◇゚ )ノ
●上州式座繰繰糸
中国からシルクロードを東周りで日本に伝来した手法を日本で改良したもの。
江戸時代後期頃からつかわれた手法です。玉繭で節のある玉糸をつくります。
繭糸の抱合があまく、それが素朴で軽い手づくりの良さをだすのだそう。
こちらは紬と壁紙の素材用の糸としてつかわれています。
右手にもっている大きな繭が玉繭です。2~3匹の蚕がひとつの繭をつくったもの。
繭からは2本以上の糸が絡まっているので繰糸が難しい。
玉繭からでてきた糸。
●諏訪式座繰り繰糸
中国の繰糸技術がシルクロードを経て西回りにヨーロッパに伝わってつくられた
フランス式とイタリア式繰糸機の利点をとって、1875年(明治8年)にここ岡谷の地で
武居代次郎らによって創業された中山社に開発された繰糸機です。
繰糸張力が低く柔らかい風合いの糸がつくられます。
染色性が良いので草木染めに用いられることが多いそうです。
この時は生繭から繰糸していました!
これはこの時季だけ繰糸する限定の生糸です。
繭は通常は熱風乾燥で処理し保存されますが、この生繭は生きた状態のまま
5℃以下で冷蔵することで蛾にならないようにされています。
生繭からとられた生糸は糸の色が白いため、美しい色に染めあがるのだそうです。
繭14~15粒からほぐれた繭糸を1本の生糸にしています。
お湯は80℃だそう。
現代の岡谷の工女さんは明るくて素敵
真っ白な生糸が生繭からとられた生糸です!
●自動繰糸(FR型自動繰糸)
諏訪式繰糸機、多条繰糸機から発達しオートメーション化された自動繰糸機です。
中国やブラジルで大量生産されている通常の生糸はほぼこの方式でつくられるのだそう。
宮坂製糸所では細繊度(14中、21中、27中)を中心に小ロットの注文生産をされているそうです。
1人の繰糸者は10~20の緒を担当して煮繭された繭から索緒機で糸口を見いだして
繰糸機手前の給繭部に移動させる作業、糸が切れた時に修復する作業を行ないます。
●銀河シルク繰糸機
300粒以上の繭からほぐれた繭糸を1本の生糸にする繰糸機。
低張力で繰糸して1000デニールの極太糸をつくります。
※主流は8粒から21デニールなので如何に太いかということです。
●極細生糸繰糸装置
世界一細く極めて高品質の超極細生糸を繰糸することができる繰糸機です。
極細系品種の繭4~5粒からほぐれた繭糸を1本の生糸にしています。
ロードセル(張力感知)による繊度管理、スラブキャッチャーよる節感知装置により、
節やむらのない極めて均質な糸をつくります。8デニールなど。
薄いスカーフ生地などにつかわれます。
見学させていただいた日が8月14日の盂蘭盆会だったので、夏休みの従業員の方が多く、
動いていない機械もありました。また近いうちに見学させていだきたいです~。
繭の種類だけでなく、繭の処理方法、繰糸方法によって生地の風合いに違いがでるということ
を教えていただきました。う~ん、何て奥深い( ̄□ ̄;)!!
レポートするのが大変遅くなってしまいましたが、岡谷蚕糸博物館の皆様、高林館長さま、
宮坂製糸所の皆様、宮坂照彦社長さま、ありがとうございましたm(_ _ )m
心より感謝申し上げます。
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上杉神社〜上杉家御廟所 / 米沢〜宮城 きものを巡る旅 その1
先月、全日本きもの振興会主催による第9回きもの文化検定の受験を申し込まれた方と
過去の1級合格者を対象とした米沢の工房見学会がありました。
関ヶ原の戦い後、会津120万石から米沢30万石へと大幅な減移封となった上杉藩。
上杉景勝の重臣であった直江兼続は、越後で行なっていた農閑期の麻布生産を米沢の地
でも奨励し、その他に桑や養蚕そして紅花の生産に力を入れました。
そして「人こそ組織の財産なり」と称え、人員削減をせず財政難を乗り越えます。
兼続の政策は、後の上杉鷹山に受け継がれ、現在の米沢織につながっていきます。
米沢は繊維栽培(苧麻)の北限の地であり、紅花の産地、そして人絹(レーヨン)が日本で
はじめて発明され生産されたところでもあります。
そして、私が好んできている置賜紬の米沢琉球織物(米琉)の産地。
知りたいこと見たいところいっぱい~(ノ゚ο゚)ノ
なので、工房見学会の前泊と後泊で観光と工房を見学することに。
まずは、米沢城趾にある上杉神社へ。
上杉の軍旗は毘沙門天の「毘」と不動明王をあらわす「龍」
「毘」の旗には戦勝の加護と勝利を祈願して、「龍」の旗は「懸かり乱れ龍」
の意。敵陣に総攻撃をかけるときに本陣にたてられたといわれています。
上杉景勝と直江兼続
二人が幼少期に勉学を学んだといわれる雲洞庵のレポはこちら☆
上杉鷹山
高鍋藩主秋月種美の次男として生まれますが、祖母の瑞耀院(4代上杉綱憲の娘の豊姫)
に養育されたことにより、8代上杉重定の婿養子となります。
※上杉家は上杉謙信の姉の子の上杉景勝をはじめとして女系が多い。
鷹山は上杉家中興の祖。直江兼続の遺志を受け継ぎ、藩政改革を行ないます。
1776年(安政5年)越後小千谷から職人を招き麻織物を家中の女子に学ばせたといわれ、
これが米沢織のはじめといわれています。
麻織物から桑と養蚕に力を入れ麻と絹の交布、そして絹織物へと移行。
長井紬、米沢紬、米琉、白鷹紬といった置賜紬へとつながっていくのです。
上杉謙信が祀られています。
江戸時代、謙信の遺骸は米沢城内の御堂に安置されて真言宗寺院によって祀られていました。
明治になると仏式から神式となり、上杉謙信と鷹山を祀る神社として創建されます。
後に鷹山は摂社に祀られ、謙信一柱の神社となりました。
宝物殿の稽照殿。
上杉謙信と景勝の遺品と伝わる服飾品は、センスも秀逸ですが、染織史の中で重要なもの
が数多く残されています。この日は団体客が多く撮影許可をいただくのを断念(^_^;)
上杉謙信が着用したと伝わる「紫白地竹雀丸紋綾腰替小袖」が展示されていました
肩裾は紫根染め。白地との対比が美しい、熨斗目の小袖です。
※掲載できる写真がみつけられたら後ほどUPします。
信長から謙信に贈られたと伝わる「赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套」は写真のみ展示。
直江兼続の愛の前立てのある甲冑「小札浅葱糸威二枚胴具足」をはじめ、
鎧甲冑の展示はとても充実していました。印伝や箔押し、鎧縅の紐などガン見
「紅地雪持柳桐文平絹胴服」「金銀襴緞子等縫合胴服」
「紺地鐙繋矢車文鎧下着」がみたかった
展示されるときにはまた米沢にいかなくては…。
米沢城趾は松が岬公園となっており、お堀の周りは桜の樹で囲まれていました。
桜の頃は奇麗でしょうね。
上杉家御廟所
御廟所は米沢城から少し離れたところにあります。
謙信の霊廟を中心として歴代の上杉家当主の霊廟が並んでいます。
2代景勝から8代重定までは火葬され社造り
9代治憲(鷹山)から12代斉定までは土葬され宝形造りとなっています。
樹齢400年以上の杉の樹に囲まれ、張りつめたような空気感のある厳かなところでした。
ちなみに上杉家17代当主の上杉邦憲氏は宇宙工学者でハレー探査機の打ち上げの担当者。
はやぶさのプロジェクトチームの方でもあります。
謙信が崇拝し日々祈ったといわれる泥足毘沙門天尊像と上杉家歴代の御位牌は
御廟所近くの法音寺にあります。
この日のランチは米沢牛のよし亭
江戸時代からの米沢織の織元の邸宅なのだそうです。
珍しい三階建ての土蔵がみえるお部屋で
米沢牛をいただきました
米沢の旅レポ、つづきます(^-^)/
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古代米琉 諏訪好風先生のお話 at 野乃花染工房 / 2014年秋 東北染織巡りの旅 その2
上杉神社~上杉家御廟所 / 2014年秋 東北染織巡りの旅 その1
のつづき
米沢にいくチャンスがあったら、ぜひ行きたいと思っていたのは、米琉の工房見学。
ここでおさらいφ(.. )
米沢、長井、白鷹で生産されている紬の総称を「置賜紬」といいます。
名君として有名な米沢藩9代目藩主上杉鷹山は藩の財政立て直しの政策として、
養蚕を奨励し越後や京都から織物の職人を集め技術を習得させ技術を定着させました。
その技術は現在まで受け継がれています。
江戸時代、北前船の交流によって北に運ばれた琉球の織物は千石船に積まれて
最上川を遡って山形県長井市の辺りまで運ばれていました。
この辺りは置賜地方といわれ紬織の産地であり、琉球絣の影響を受けたといわれています。
1875年(明治8年)から琉球色の強い長井紬は「米沢琉球織物」通称「米琉」
といわれ、明治後期にその生産は隆盛を誇りました。
戦後その技術は途絶えてしまいますが、置賜紬伝統織物協同組合連合会の研究に
よって、1999年(平成11年)米琉は「古代米琉」として復興されました。
米琉はきもの文化検定の教本などでは「置賜地方で織られる琉球絣に似ているもの」
とあるのですが、今回の米沢行が決まって各所に問い合わせをしたところ、現在、
米沢に米琉をつくっている工房はない…とのこと。。。ガーン( ̄□ ̄;)!!
置賜紬伝統織物協同組合の理事長が諏訪先生ということがわかり、諏訪先生にご連絡すると、
「米琉のことを説明するなら3時間は必要」とのことで、きもの文化検定の工房見学の
前日に個人的に工房にお伺いさせてただくことになりました。
野乃花染工房5代目の諏訪好風先生と
見せていただいた米琉の裂。あれ?、琉球絣とは似ていないような…。
明治中頃には「大島•結城•米琉」と紬の代名詞のようにいわれ広く流通したのだそうです。
諏訪先生はある蒐集家の方の裂地を年代別に仕分ける作業を手伝ったことから、
米琉に魅せられ、戦後途絶えてしまったこの織物を復興することに尽力されることになります。
残された小裂から絣の技法、染料を研究。素材となる生糸づくりから開発することに。
生糸は白鷹産の曙という品種の蛾を5匹、小淵沢にあった農林水産省蚕糸試験場から
譲り受けて生育するところからスタート。この曙の生繭を宮坂製糸所の座繰りで生糸にします。
宮坂製糸所の生繭の座繰りについてはこちら☆
これによって、細くて光沢と弾力のある生地が織れるようになったとのことでした。
琉球絣と似ているのは普通の紬よりも膨らみと弾力がある生地のことだったのだそう。
染料は、黒喪服の3度黒染めにもつかわれるヘマチン(ログウッド)とカッチの草木染めです。
カッチは東南アジアに生息するマングローブの一種で双子蛭木の樹皮からとれる染料のこと。
樹皮にタンニンが多く含まれクロム媒染で独特の茶色を生みだすのだそう。
このカッチはもう手に入らず、これ以上つくることができないのだそうです。
絣は小裂から約30種類の復元に成功。
この経緯絣を織るために織機も開発することになったのだそうです。
上に木枠がない織機でした!
絣は種糸をつかった手括り。年代別に区分されサンプルがつくられます。
まずは藍染めで復元されました。これも素敵~(〃∇〃)
こうして戦後途絶えていた、米沢の染織の技が甦ったのです。
古代米琉の口織と置賜紬の証紙。
米沢、長井、白鷹で各々組合があったのが規模が縮小され置賜紬として統合されたのだそう。
すると…、私の着ているものは?
米琉の特徴は赤小口といわれる赤い絣足。そういえば久米島紬にもみられますね!
この辺りが、今、広義でいわれるところの米琉もしくは米琉風?の特徴なのかもしれません。
戦前の米琉は琉球絣と絣が似ていたというわけでないそうですが、後からつくられた
長井などで米琉として織られているものは、琉球絣を意識してつくられたということかも。
米沢にいったら米琉がたくさん織られているのかな~っと、調べるまでは思っていたのですが、
米沢では、米沢織、米織という言葉は聞いても、米琉の名前はでてこない。
残念ながら今の米沢で米琉はつくられていないのだと実感いたしました(ノ_・。)
明治の技を復興するための探究心と不屈の精神、それを体現する技。
こういったお話をお聞きするのはワクワクします♪ そして勉強になりました!
諏訪好風先生ありがとうございましたm(_ _ )m
野乃花染工房見学は日参することに。
後ほど別記事でまとめます(^-^)/
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米織会館 / 2014年秋 米沢染織巡りの旅 その3
古代米琉 諏訪好風先生のお話 at 野乃花染工房 / 2014年秋 米沢染織巡りの旅 その2
のつづき
米沢2日目 まずは米織会館へ
1階が米織のアンテナショップ、2階は米沢織物歴史資料館となっています。
1922年(大正11年)に建築されたという旧米織組合会館はレトロできものが似合う。
直江兼続からはじまる米沢の殖産興業としての染織の歴史。
上杉鷹山は桑の栽培と養蚕に力を入れ、青苧の麻織物から絹織物への転換をはかります。
越後からは縮織り職人を呼び縮役場を設け家中の女子に技術を習得させ殖産興業へと
結びつけました。
米沢では紅花や紫根による草木染めがされていましたが、さらに仙台より藍を取り寄せ
栽培し染め役場もつくられています。
紅花、刈安、梔子、柘榴、蘇芳、胡桃などの植物染料による染めが米沢織の原点であること
から伝産品である置賜紬は100%草木染めであることが条件とされています。
明治になり化学染料が普及し力織機が開発されると大量生産化が進みます。
1915年(大正4年)米沢高等工業学校(現山形大学工学部)の秦逸造が米沢製糸場を買い取り、
東工業米沢人造絹糸製造所を設立します。後の帝国人造絹絲株式会社、今の帝人です。
秦逸造は日本ではじめて人絹(レーヨン)の製造に成功、工業化されます。
大学発のベンチャー企業の先駆けといわれています。
レーヨンの製造につかわれる「紡糸機」
レーヨンとは、セルロース(パルプやコットンリンター)を水酸化ナトリウムなどのアルカリと
二硫化炭素に溶かしてビスコースにし、酸の中で紡糸したもの(湿式紡糸)。
ビスコースは接着剤みたいなものでセロファンのことらしいです。
化学繊維について勉強しないと知らない用語だらけ…(-"-;
居坐機、八丁撚糸機、苧引き台、きぬた
「弓だな仕掛け」の織機
野乃花染工房にあった絣織のための織機と似ています。
1802年(享和2年)丹後から縮織師の宮崎球六が米沢にやってきて高機が導入されます。
唐糸織、博多織の技術を伝えたとあり。
かつて、苧麻栽培と麻織物が主流だったころの、からむし(青苧)裃
大正時代の米琉や昭和初期の米沢紬
袴地は大正時代から多く生産されるようになり、現在95%が米沢織です。
洋服のテキスタイル生地の分野でも日本一の生産高で、イタリアのコモ湖周辺と匹敵する
海外高級ブランドの生地をつくっています。
米沢では他産地からの技術力を取り入れ殖産興業化するという、土台があることからか、
米沢黄八丈や大島紬のようなものまで様々な産地のものが織られていたようです。
ガチャ万時代といわれた1953年(昭和28年)に米沢黄八丈は年間10万反の生産。
1955年(昭和30年)は絣ブームで20万反の絣織が生産されています。
資料には米沢リッパ絣がブームとあるのですが、米沢リッパ絣??? どんな絣なんでしょう。
1927年(昭和2年)錦紗風のシボがあるレーヨン地のみずほ絹が大流行。
良い意味で固執しすぎないところが、日本ではじめてレーヨンの開発と商品化に成功した
要因となっているかもしれません。
昔ながらの手機による織物と機械織りで、米沢紬、仕舞袴、シルクサッカー地、
ジャガード洋服生地と様々な織物が織られています。
全国の洋服生地の産地の中でも最高級品であり、絹から合成繊維まであらゆる種類
の糸を組み合わせたものもつくることができるのというのも、米沢織の魅力であり、
さらなる可能性を持っているというところでしょうか。
次は、原始布古代織参考館です。←ここがすごいのです\(゜□゜)/
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ぜんまい織•編衣 原始布•古代織参考館 その1 / 2014年秋 米沢染織巡りの旅 その4
米織会館 / 2014年秋 米沢染織巡りの旅 その3
のつづき
原始布•古代織参考館へ
明治中頃の米沢の最後の機蔵とからむし豪商の館を移築し復元した建物です。
「布について語るなら、ここには絶対にいっておいたほうがいい」と教えていただきました。
初代館長である山村精(やまむらまさし)が、日本の原始布や古代織の復元と存続に取組み、
その際に集めた膨大な資料を展示した施設の資料館です。
編衣、藤布、科布、楮布、葛布、麻布、蕁麻布、苧麻布、紙布、ぜんまい織、琴糸織、アッツシ、
裂織、つづれ織、津軽こぎん刺し、南部菱刺し、など貴重な布と織機、資料が展示されています。
麻を栽培し繊維を取る以前、遥か昔の話(縄文時代から)ですが、古代の人々は野山に
自生する靭皮繊維から布を織っていたといいます。木綿が庶民に普及しはじめると需要が
なくなり、大変な手間がかかる原始布(自然布)は都市から離れた山村の集落にのみ残り
わずかに伝承されているという状況…。1950年(昭和40年)ごろ山村精は古布を手に
山村の織り手を訪ね歩き、見聞きした記憶を記録し研究そして復元されました。
山村精氏の婿にあたる館長の山村幸夫先生から詳しくお話をお聞きしました。
この茶棉のような綿、なんだかおわかりになるでしょうか?
ぜんまいです!
ぜんまいの新芽は綿のような衣で覆われています。これは雪から新芽を守るためのシェルター
のようなもので、寒い地域のぜんまいほど、羊の毛のようにワタワタしているのだそうです。
ぜんまい織をつくるため、織機をもって山形の雪山を超えたのだそう。
春、ぜんまいの新芽を採取した後、食用の茎と綿を分け、綿を集めてゴミを取り除いて、
天日でよく乾燥させます。
夏、90℃ぐらいで蒸し、乾燥させて真綿と混ぜあわせ糸を紡ぎます。
経糸は綿糸か絹糸、緯糸にぜんまいの糸をつかって織りあげます。
ぜんまいの糸はフカフカの手触りでした:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
ぜんまい織は保湿性と防水性が高いのが特徴。水を垂らしても、この通り!
脅威の撥水性です\(゜□゜)/
ぜんまい織のコート纏ってみたいですね…。
蕁麻、からむし、大麻、藤、しな、など原始布になる靭皮繊維から取られた糸
山村氏が蒐集している原始布をみせていただきました
藤布
葛布の道中着
葛布の直垂
紙布の道中着とアッツシ織
日本最古の衣服といわれる網衣(アンギン•アミギヌ) ←きもの文化検定1級問題向き
綜絖をつかった織機による織物以前の編み物、組紐に似ています。
染織文化講座の中で「北村武資先生が最初の織物は平織でなく羅だったのではないか?」
と学術的なことからというよりも織り手として思う、とおっしゃっていたというお話がありましたが、
確かに織機の前は編みものだったわけで、、、すると、すんなりそう思えます。
編衣はからむし、蕁麻、赤苧などの繊維かた績んだ糸簾のように編んでつくられた布。
縄文時代の遺跡から出土しています。
明治初期まで新潟県十日町市付近ではつかわれており袖無しの編衣が残されています。
北国ならではのものといえば、刺し子がありますが、南部菱刺し、津軽こぎん刺し、庄内刺し子
とあり、特徴があります。
そして、編衣、カッペタ、アッツシ、台湾の織機、韓国の織機と、、、織機の源流。
別記事にてまとめます(^-^)/
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