染織文化講座実技研修「江戸友禅を描く」
講師は東京友禅作家の岩間奨先生
1回目は糸目糊置き、友禅挿し、約1ヶ月後の2回目は金彩、金砂子による加飾を実践します。
下絵はあらかじめ描かれていました。自分で追加していくのも可。
花喰鳥を書き足そうと思っていたのですが、あまりの絵心のなさに断念しました(^▽^;)
下絵でつかわれているのは、蒸しの工程で消える新青花液コンク
あたりをつける薄い液と下絵を描く濃い液、糊はゴム糊です。
今回は口金はつかわず筒先を切ってつかいます。
試し布に糊を置いていきます。あ~、ガタガタ(x_x;)
下絵に沿って糊置きをします。
糊がでてこなかったり、押し出しすぎると糊が散ってしまったり…
筒先をガーゼで拭きとりつつ
すっごく太い糸目友禅になりそうです…
真っすぐな線のほうが難しそうだったので、
落款はハート形にしてみました
両端に針がついた細い竹の棒(伸子)を布の両耳にかけて竹の弾力で布をピンと張ります。
これを伸子張りといいます。
色挿しの前に、糸目を浸透させ防染効果を高めるために、布に染み込ませたベンジン
を生地の裏から吹いていきます。揮発地入れというようです。
赤、黄、緑、青、紫、ピンクの6色の酸性染料を混ぜて色をつくります。
まず、黄色と緑の色挿しからやってみました。
泣きどめの量が少なかったのか、染料が泣いてしまったので、さらに糸目糊で枠をつけることに。
色づくりが楽しくてつい遊んでしまう…
花の色は暈かしで濃淡をつけたかったのですが、失敗しました
裏みると糸目糊が落ちた状態がわかります
まだ見ぬ理想のものを体現していく…、そうなればいいのですが、漠然としたイメージを
上手くあらわせず、模索中(@@;
乾燥するとまた色のイメージが違ってくるから難しい…
唐花の萼のところの色を緑系にしたほうが良かったかもね…っと、←後の祭りです
完成です!
ムラムラになってしまったところ、色がにじみ出てしまったところは、
次回の金線と砂子の実習で誤摩化します。それも楽しみ~♪
友禅体験実習の中でも、糸目糊置きから金彩までできる機会は中々ないと思います。
しかも、解説付き!とても有意義な講座でした。
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染織文化講座 「江戸友禅を描く」糸目糊置きと色挿し 実技講習
「ドールカルチャー展 」内覧会 at 六本木ヒルズ展望台 シティビュー
ドールカルチャー展、本日より開催です。(~10月19日まで)
会場は六本木ヒルズ展望台 シティビュー
「kawaii」という言語は世界に広まりつつあるようですが、その源流の担い手は人形文化。
リカちゃん、ジェニー、バービー、ブライズ、スーパードルフィー、の競演。
「リカちゃん」
私、着せ替え人形とおままごとが遊びの定番だったリカちゃん世代です。
家にリカちゃんハウスはありましたが…、リカちゃんではあまり遊ばなかった気がします。
リカちゃんハウスに入ってみた(*_*)
りかちゃんのパパはフランス人でママはデザイナー、お姉ちゃまはスチュワーデス。
つくられた家族もいて与えられた世界観で遊ぶというのがあまり好きでなかったのかも。
お洋服は一昔前のものが好み~♪
制服のようのなカチッとしtものが好みだったので、今の洋装では着たいものがない。
なので、日常生活から礼装まで、すべてがきものになってしまった…。
こちらは「ジェニー」
リカちゃんはワンピース型が多いですが、ジェニーはトップスとボトムスが分かれたもの、
時代にあわせたファッションのものが多いのが特徴。
「バービー」
バービーはアメリカで発売されましたが、日本生まれ。
1959年の日本はアメリカよりも人件費が安く、加えて繊維産業が盛んであったことから
(アメリカのパンストを支えたのは日本の絹産業)、人形と衣裳をセットで発注できたこと
から、日本でつくられたのだそうです。
ちなみに、1970年ごろからは東南アジアでの生産に変わっています。
日本の絹産業の斜陽化とこういったところでも連動している…。
「ブライズ」
当初はアメリカで発売されたけれど人気がでず1年で生産中止。
30年の時を経て日本のCMでつかわれ人気の火がついて復刻されたのだそう。
大腰袴に唐衣? 衣裳考証は謎ですが…。
海外の人からみた十二単はお雛様と三人官女が合体したようなものということでしょうか。
「スーパードルフィー」
ポーズを自在にとることができる、球体間接人形。
独自の世界観があるようで、私にはよくわかりませんでした…(・_・;)
ちなみに、自分の人形を持参すると入場料が200円割引になります。
カメラケースのマングースも割引対象だそうです。←人形じゃないけどOKらしい
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染織文化講座 「加賀友禅 実地研修」at 鶴見染飾工芸 / 2014年夏 金沢の旅 その11
染織文化講座 「友禅」/ 千總に志ま亀の京友禅鉄板コーデ / 2014年夏 金沢の旅 その10
のつづき
宮崎友禅斎が晩年に身を寄せたといわれる、加賀藩御用紺屋の頭取「太郎田屋」
の家督を務めた鶴見吉太郎の直系の工房、鶴見染飾工芸へ。
鶴見吉太郎の孫にあたる日展の加賀友禅作家鶴見保次先生
きものは着姿が大事。芸術品というよりも、人が着用した時に一番美しく見えるように
常に柄の配置を考えているとのこと。
加賀友禅の落款は朱肉でなく糸目糊で作品ひとつひとつに描き入れられるのが特徴。
加賀で加賀友禅作家と称されるには加賀染振興協会に落款登録をすることが必要です。
加賀友禅作家のもとで7年間以上の修行をし、独立すると相応しい技能をみにつけたときに
加賀染振興協会の会員2名の推薦を受けて申請することができます。
加賀友禅の作品は、毎週木曜日に加賀染振興協会の審査があり赤い証紙と割り印がおされます。
息子さんである加賀友禅の鶴見晋史(つるみくにちか)先生
青花下絵、彩色、中埋め、地染め、蒸し、友禅流しの工程の説明をしていただきました。
加賀友禅は手描きによるもの。
鶴見先生の工房の棚には過去の下絵がギッシリ(ノ゚ο゚)ノ
今回は見学だけでなく、実地研修ということで体験もありヾ(@°▽°@)ノ
●下絵
白生地に青花で図案をなぞっていきます。
青花は大帽子花の色素から採取されるもの。水洗いで落ちます。
●糸目糊置き
ご指導くださったのは、糸目糊置師の東正博先生
加賀友禅は分業ではないといわれていますが、専門の職人の方もいらっしゃいます。
糸目糊置きの技能を競う賞もあるのだそうです。
加賀友禅でつかわれる糊の成分は、糯粉・糠・塩・石灰。糊は白いので置いた糊を
わかりやすくするために蘇芳が入った糊(赤糸目)と亜鉛末が入った末糊(黒糸目)を
つかいわけるのだそう。蘇芳が入ったものがより細い線でつかうとのこと。
筒先から絞り出すように糊を置いていきます。
糊を均一にだすのが難しい…。持ち方にコツがあるようです。
●彩色
加賀友禅ならでは「先暈かし」の色挿し
伸子を持たずに彩色していたことに後で気がつきました…(゚_゚i)
●中埋め
彩色したところに地染めの色がつかないように糊を伏せ大鋸屑をかけます。
大鋸屑は糊が乾いて割れるのを防ぐためと、引き染や蒸しの工程で軟らかくなった糊が
他の生地に触れて付着するのを防ぐためにつかいます。
●地染め→蒸し
地染めをし蒸して染料を定着させます。
●水元
友禅流しです。余分な染料や糊を落とします。
鉄分が少ない軟水のほうが良いとされ、浅野川での友禅流しは金沢の冬の風物詩として
印象強いです。
今は水元を持っていない工房は加賀友禅染色団地で行なわれることがほとんどだそう。
加賀友禅の工程の中のいくつかを体験させていただいた貴重な工房見学となりました。
その技の難しさを身を以て知ると、ますますきものが好きになりますね
丸山先生と鶴見先生のお話がまた興味深く、耳をダンボにして聞いていました~。
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日本に居乍らして、ハンガリーの至宝 / 今季初の単衣 やまだ織のダイヤ柄の塩沢御召
今季初の単衣に袖を通しました。
が…、まだまだ暑かった(x_x;)
やっぱりお彼岸までの日常着は無理なく透け感のない夏物にしようかと思います。
文様は季節先取りの秋らしいものに、素材は着心地重視で。
きもの生活を快適にするには必要なことですね。
【9月14日の装い】東京◇晴れ(湿度50%、陽射しは燦々)/ 最低気温19℃ 最高気温29℃
ダイヤ柄の塩沢御召の単衣にべにきちの鳥尽くし「木立」の紅型の麻の帯をコーディネート
少々わけありでこの装いです。
日本に居乍らして…、世界のカフェ巡り、シリーズ化なるか?
ハンガリーの首都ブタペストで150年以上の歴史がある老舗カフェ、ジェルボー
ドナウの河岸のブタとペストが橋で結ばれているブタペスト。
ドナウの真珠とも謳われる美しい街、宮本輝のドナウの旅人を愛読していたころから
いってみたいと思っている街のひとつ。
ジェルボーはハプスブルク家の王妃エリザベートに愛されたカフェとして知られています。
フランツ•リストが足繁く通ったことでも有名。
ハンガリー料理はパプリカがつかわれているものが多いです。美味しい♪
ランゴーシュといわれる、ハンガリーの揚げパン
ゆったりしたつくりの店内とテラス席もあります。
重厚感あるインテリアの店内は落ちつきます~。都会のオアシス。
パイナップルジャスミンティーの香りはサッパリして、食後に良し
デザートまでいきつけなかったのですが、ジェルボーのケーキはどれも美味しそう。
こんどはゆったりお茶しに来よう~♪
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染織文化講座 箔貼り体験 at 箔巧館 / 2014年夏 金沢の旅 その12
染織文化講座 「加賀友禅 実地研修」at 鶴見染飾工芸 / 2014年夏 金沢の旅 その11
のつづき
本物の金箔が数千枚つかわれた「金箔の間」
復元された前田利家公の鎧兜も金箔加工されていました(ノ゚ο゚)ノ
さて、なぜ加賀友禅の地の染織文化講座で金箔なのか…?
加賀友禅には金彩はつかわれていませんが、西陣織や京友禅では箔がつかわれます。
日本の金箔は98%が京都でなく金沢で生産されているという、実は独占地域産業なのです。
お話してくださったのは、箔一の創業者であり会長の浅野邦子さん。
金箔に負けず劣らずのキラキラした美人実業家でいらっしゃいました。
浅野会長は京都から金沢の箔屋に嫁ぐことになられ、はじめは主婦をされていたそう。
当時、金箔は西陣織や仏壇などの材料としてのみとしてつかわれていて、変色してしまった
ものは返品として受け取るという状況だったといいます。
きものに金箔をつかって変色する理由を考えもしていなかった、こうしたことに疑問を抱き
新たに起業をされ、金沢箔としてのブランドを確立されました。
日本ではじめて、箔打ちの職人技術をつかったあぶらとり紙を開発された方でもあります。
●箔貼り体験
用意されていたのは、マスキングテープが貼られたお箸と金箔
金箔を掌にのせその上にお箸をのせます。
グルッと一回転
箔を貼らないところにマスキングテープを貼っておいて剥がすというやり方なのですね
コーティング剤を塗って乾燥させます(5分ぐらい)
マスキングテープを剥がします
丸山伸彦先生も体験
今回の染織文化講座金沢編をアテンドくださった加賀友禅プロモーションマネージャーの
鶴賀雄子さんも体験
完全に定着させるのに2日間かかるそうです。完成ですヾ(@°▽°@)ノ
●金箔の製造について
金箔は金の延べ棒を溶かし合金したものを繰り返し圧延機で延ばして、ある程度薄く
してから、箔打ちで叩き延ばします。
金箔づくりで重要となるのが、箔を叩くときの和紙なのだそう。
金箔は静電気をおこさないように、専用の竹箸をつかって扱われます。
金箔は10円玉ひとつの大きさで畳三畳分までひきのばされます。薄ーい。
いかに薄いのかは、金箔を光に翳してみると…
青緑色に見えます
金は普通に見ると金色をしています。これは反射光によるもの。
金箔は薄いので光を透します。透過光では青緑色に見えるのです。
1階には金箔の工芸品をはじめとして、金箔をつかった化粧品やお菓子、あぶらとり紙
など、お土産物も豊富~。カフェでは金箔入りソフトクリームもありました♪
ひがし茶屋街の十月亭(じゅうがつや)でいただいたランチの竹籠弁当
こちらの葛きりがとっても美味しかったですо(ж>▽<)y ☆
この日の金沢は大雨でした。これもまた風情があっていいものですね。
2014年夏 金沢の旅のレポートはこれにて終了。
今回の産地研修のためにご尽力くださいました方々に感謝申し上げます。
ありがとうございましたm(_ _ )m
あとでまとめリンクをつくります。
次は、染織文化講座 富岡製糸場見学と草木染め実習レポートです(^-^)/
岡谷蚕糸博物館と近代産業遺跡群巡り、大麻糸づくり、
長崎巌先生の絣、小千谷の西脇商店さんの小千谷縮、まだあったような…(@@;
ああ、夏が終わってしまった~
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富岡製糸場 〜建物と歴史〜/ 染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その2
染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その1
のつづき
世界遺産に登録され、注目される富岡製糸場。
前はひっそりとしていたそうですが、世界遺産に認定された今、連日ツアーが押し寄せる
一大観光地となりました\(゜□゜)/
1859年(安政6年)に横浜が開港されると、日本から大量の生糸と蚕種が輸出されるようになります。
当時ヨーロッパでは微粒子病といわれる蚕の病気が大流行し、養蚕は壊滅状態であったため、
大量の蚕種と生糸が必要とされたのです。
日本の製糸は座繰りによって行なわれていました。
座繰り製糸は養蚕農家ごとに蚕の品種や座繰りのやり方が違い、生産量も少なく、品質の向上
と生産能率をあげるために西洋式の機械と技術の導入が試みられます。
1870年(明治3年)に前橋、1871年(明治4年)に築地でイタリア式製糸法が導入。
1872年(明治5年)には日本ではじめての官営の製糸場である富岡製糸場が創業され、
300釜のフランス式繰糸機による当時世界で最大規模の生産様式の技術が導入されました。
これは明治政府による殖産興業の一環であり、これによって日本は外貨を得て富国強兵、
近代化の道を歩むこととなります。
満開の百日紅の花が夏の終わりを告げていました。
●検査人館
生糸の検査をしたフランス人の技術者の住居だったところで、現在は管理事務所となっています。
●東置繭所
正門から真っ正面に見えるのは富岡製糸場のシンボルともいえる赤煉瓦の建物。
100m以上はある巨大な建物が繭の倉庫。
これにギッシリ繭が入っていたとなるとスゴイですね…。
煉瓦はフランス人が指導し日本の瓦職人が焼いたもので、目地にはセメントでなく漆喰が
つかわれています。ガラスや蝶番はフランスから持ち込まれたものだそう。
木骨煉瓦づくりという、西洋の煉瓦積みの技と日本の材料をつかった木組みと瓦葺きの
屋根という和洋折衷の建造物です。
正面裏側の2階にはバルコニーがあります。
●乾燥場と煙突
繭を乾燥させるところ。
世界遺産認定の直前ともいえる2014年2月の大雪で半壊していました。
●ブリュナ館
明治政府によってフランスから招かれたポール•ブリュナと家族が暮らしていた住居。
高床式で回廊風のベランダという開放感あるコロニアル様式。
地下には煉瓦づくりの食料貯蔵庫が今もあります。←見学不可
ブリュナが飲んでいた赤ワイン、当時の日本人には血に見えたようで、フランス人は生き血を
飲む人種という誤解がありました。それによって富岡に工女としていくと生き血を吸われる
という噂が広まり、なかなか工女が集まらず、初代工場長の尾高惇忠の娘が率先して工女と
なることによって、ようやく集まったのだそうです。
ブリュナの帰国後は校舎や講堂としてつかわれたため改造されており当時の面影はないそう。
●女工館
各地から集まってきた工女に繰糸の技術を教えるためにやってきたフランス人女性教師の
ために建てられた廻廊様式のベランダ付きの建物。
「女工哀史」の影響から、工女はとてつもなく劣悪な環境での労働を強いられたかのように
思われていますが、「富岡日記」という横田英の回想録によると、当初は1日8時間労働で
週休1日、夏休み、冬休みもあり、お花見や夕涼みを楽しんだことが記されています。
日々の食事も恵まれていて、富岡工女の厚化粧といわれるほどオシャレもしていたそう。
売店ではフランスの香水や化粧品も売られていたそうで、流行の先端だったのかもしれません。
ちなみに1日で生糸4束取れる1等工女は赤い襷と高下駄が許され、年俸は25円。
ただし、その後民間に下げ渡され状況は都度変わります。
1873年(明治6年)富岡製糸工場を昭憲皇后と英照皇太后が行啓された際の画。
荒井寛方◇「富岡製糸場行啓」聖徳記念絵画館壁画
1893年(明治27年)官営だった富岡製糸場は民間に払い下げられます。
その後、三井、原、片倉と変わりますが、戦時中も一環して製糸工場として稼動します。
片倉工業は、片倉市助が1873年(明治6年)岡谷市の自宅の庭で10人繰りの座繰り製糸
をはじめたことが嚆矢。後に国内外に64の製糸工場を経営する片倉財閥となります。
諏訪、岡谷地方が糸の都となった立役者のひとり。
絹の生産量の減少から、片倉工業富岡工場(富岡製糸場)は1987年(昭和62年)2月26日に
操業を停止します。
しかし操業停止した後も「貸さない、売らない、壊さない」の方針を貫き、莫大な予算をかけて
守り抜いたことによって、保存状態が保たれ、富岡製糸場は今日の世界遺産となりました。
固定資産税だけでも年間2000万、維持管理もコストを考えるよりも当時の工法にこだわり
年間維持費は1億円になることもあったとか…。
繰糸場内は操業停止時のまま保存され、当時の最新式であった繰糸機が設置されたまま
となっています。
ユネスコ世界遺産登録に向けて、2005年(平成17年)に富岡市に譲渡され今に至ります。
2014年(平成26年)6月21日にカタールの首都ドーハで審議された第38回世界遺産委員会
にて富岡製糸場と絹産業遺跡群が、世界遺産に認定されました。
国内の世界遺産としては18件目、文化遺産としては14件目、近代の産業遺産としては
国内ではじめてのことです。
※上毛新聞 号外より
生糸づくりの繰糸場につきましては別記事にて(^-^)/
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日本に居乍らして…、ラデュレのサロン•ド•テ / 奥順の夏結城に虫籠の刺繍の絽縮緬の帯
昨年夏に結城の奥順へ工房見学にいったときにお願いしていた夏結城が、一年越しの
夏が終わって、仕立てあがってきました。
ここ数年、お彼岸までは無理せず薄物を着ていますが、今年の秋の訪れは思いの外早く、
陽射しもすっかり秋のもの~
そこで透け感をなくすために墨色がかった紺色の絽の長襦袢を着ています。
袖口に注目してくださいませ。
透け感がなくなれば、見た目は単衣のようです。でも着心地は夏物なので軽くて涼しい
日本に居乍らして…、マカロンの生まれたカフェ。ラデュレのサロン•ド•テ。
ラデュレの歴史は1862年にルイ•エルネスト•ラデュレがパリのロワイヤル通り
16番地にブランジュリーをオープンさせたことからはじまります。
20世紀半ばにはカフェとパティスリーを融合させたサロン•ド•テをオープン、
そして伝説のマカロンを生み出します。
日本にラデュレのサロン•ド•テができたときは、小躍りするような嬉しさと共に、
パリまでいかなくても楽しめるのか…という一抹の淋しさもありました。
でも何だかんだとパリにいかれるわけでもなく、こちらでゆったりお茶する時間は
優雅な気分に浸ることができ、何とも贅沢なひとときでした。
しかし何と、今月28日でクローズされてしまうのだそうです(T_T)
日本橋三越のカフェ、先月のウエストがなくなってのショックにひきつづきの大ショック
う~ん、オムレツも食べにこよう…。
【9月18日の装い】東京◇晴れ(湿度40%) / 最低気温20℃ 最高気温26℃
奥順の黒地の経緯絣の夏結城に虫籠のアンティーク刺繍の絽縮緬の帯をコーディネート
夏結城の着心地は夏塩沢に似たシャリ感。夏塩沢よりも軽いです。
透け感を抑える長襦袢を着れば5月の初夏~9月の初秋まで着用できます。
え
虫籠から虫が脱走?
虫は苦手なのですが…(x_x;)、足がリアルで怖いーーーー。
鳥かごの千鳥の刺繍が可愛いのです
楊柳の帯あげは渡敬、帯〆は龍工房、根付紐は藤岡組紐、
サハラガラスの小鳥は海馬ガラス
バッグは松枝忍、ぞうりは菱屋カレンブロッソ
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いよいよ始まる!子ども・子育て支援新制度-政府ITV: PR
第61回日本伝統工芸展 at 日本橋三越 / 芹沢銈介の世界展 at 日本橋高島屋
「第61回日本伝統工芸展」 日本橋三越にて開催中(~9月29日まで)
日本工芸会の主催による、染織、陶芸、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸の7部門の
国内最大規模の公募展です。
重要無形文化財保持者の作品をはじめ、一流の目で選定された素晴らしい工芸品を
ガラス越しでなく肉眼で間近にみることができます。
染織部門が本館と新館の両方にわかれて展示されているので要注意!
出品作品一覧の案内図をもらって見たほうが良いです。
この日は小笠原小枝先生によるギャラリートークもあったので、大混雑でした。
会期中には何回か通いたいと思います。
松原伸生先生の長板中形着尺「漣文」 高松宮記念賞受賞
漣(さざなみ)と名づけられた美しい青色から抜かれた水面の文様からは
水面の光や波の躍動が伝わってくるような美しい作品。
江戸の粋というより現代の品格の印象が強い。
そして、生地は夏大島。長板中形といえば、木綿の藍の両面染め。
夏大島に染められていることにも驚きました\(゜□゜)/
森口邦彦先生の友禅訪問着「黒地三弁花位相文 風花」
上前と下前、左袖と右袖で文様の大きさがグッと違う柄付け。着姿に奥行がでそう!
着用されているところを拝見したいものです。
土屋順紀先生の紋紗着物「流簾」
向こう側がみえるような透明感がある織物、透明感はあるけれど糸の1本1本に力があるのが
伝わってくるような…。落ちつきある色でありながら軽やかな濃淡の美しい色にも魅かれます。
★上記の三人の先生方のお話が聞ける、染織文化講座は、9月26日~ 詳細はこちら☆
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
「芹沢銈介の世界展」日本橋高島屋にて開催中(~9月23日まで)
高島屋ではあわせて「民藝展」も開催中。
松本家具をはじめとして陶芸や漆器、和紙、寄木細工などの手仕事による生活道具の
美しさを堪能できる催事です。
紅型に感銘を受け、自分なりの型絵染めをつくりあげた芹沢銈介の世界。
この展覧会、展示の仕方もとても良かった。
芹沢銈介の世界観を様々な角度から考察できるようになっています。
会場が広く天井が高く感じられたのも○
芹沢銈介の作品、その色調はどこか懐かしく郷愁を誘います。
民芸色の強いものは野暮ったいとされますが、本物には力がある!
受けとめられるだけのものがあれば、着こなしてみたいです。
高島屋のショーウィンドウは芹沢銈介一色でした。
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富岡製糸場 〜繰糸場と生糸づくり〜/ 染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その3
富岡製糸場 ~建物と歴史~/ 染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その2
のつづき
さあ、いよいよ繰糸場ですヾ(@°▽°@)ノ
横から見た外観。看板には「最新型自動繰糸機10セット設備」とあります。
外側は発掘調査中となっていました。
繰糸場内へ。
入口はレトロな空間へ誘ってくれるかのようですが…
天井はトラス構造といわれる三角形を基本形とした柱のない大空間に立ち並ぶ繰糸機。
操業を停止した1987年(昭和62年)2月26日の状態がそのまま残されています。
これらの繰糸機は「プリンス製」
プリンスとは日産プリンスのプリンスのことですが、もとは中島飛行機という飛行機製造会社です。
戦後、飛行機の生産が中止されたことで自動車産業となり、その中のひとつがプリンス自動車
となり後に日産自動車に吸収されます。
プリンス自動車は自動車生産と並ぶ日本の柱となるような機械開発として、1952年(昭和27年)
に自動繰糸機を工業化、さらに1957年(昭和32年)に農林省蚕糸試験場考案の
「繊度感知器」の工業化に成功します。
これによって定繊度式繊度感知方式が採用され生糸生産の自動化が普及することになりました。
トヨタは自動織機を発明した豊田佐吉が源流で、織機から自動車へという流れですが、
日産(プリンス自動車)は自動車から繰糸機を誕生させます。←ここポイント
「繊度感知器」
2枚のガラス板の間に目的の隙間をつくりそこへ生糸を透します。
糸が細くなり摩擦抵抗が少なくなるとそれを感知して新たな繭が継ぎ足されます。
これは27デニールを目標として繰糸している指示
「鼓車」糸の通り道をつくる車のこと。
「集緒機」
煮て柔らかくなった繭から取り出された糸はこの穴を通って撚りが掛けられます。
この穴を通るときに大きな節があるとここで詰まって巻き取りを停止させます。
今年は富岡製糸場が世界遺産に認定され、岡谷蚕糸博物館(シルクファクト岡谷)が
オープンするなど、日本の近代化を担った「生糸」に注目が集まっています。
1872年(明治5年)の富岡製糸場創業時に導入された300釜のフランス式繰糸機
これは現在の富岡製糸場にはなく、岡谷蚕糸博物館に残されています。こちら↓
富岡製糸場はフランス式繰糸機を導入していましたが、後にイタリア式繰糸機になりました。
それはなぜか?
フランス式とイタリア式の大きな違いは糸の撚り掛けです。糸に取って撚りは重要!
生糸づくりは鍋に入った煮た繭から数本の糸を引き出して束ね(集緒)、
それをセリシンで粘着させ撚りをかけ1本の糸にします。
フランス式は共撚り式といわれ、集緒した2筋の糸を互いに絡ませて糸の張り力を均衡させ
抱き合わせるように繰糸する方法。
イタリア式(イタリー式)はケンネル式といわれ、数本引き出した繭糸を1つ穴の集緒器を透して
数本をあわせて1筋の糸にし、その糸を鼓車を通過させて抱き合わせます。
共撚り式は2本の糸の張り力が均衡でないと切れてしまう、操作が難しい、生産性が悪い。
ケンネル式は抱合に優れ生産性が高いという利点がありました。
煮繰兼業か分業か、揚返しがあるかないかの違いもあり、
フランス式かイタリア式かという論争は70年つづいたそうです。
明治から大正にかけて流行ったといわれる工場歌の「富岡節」
~♪ 箒(ほうき)静かに索緒(くちたて)しゃんせ、繭は柔肌、絹一重、
わたしゃ17、花なら蕾、手荒なさるなまだ未通女(おぼこ)~♪
煮た繭は索緒箒によって糸口が取り出されますが、このことを歌ってます。
開国後、生糸の輸出は欧米列強と肩を並べるための外貨習得の手段であり、
そのために明治政府によってこの富岡製糸場はつくられました。
そして蓄えた富によって日本は富国強兵への道を歩むことになります。
富岡製糸場は日本の近代化への足跡。
莫大な費用を投資し15000坪もの広大な敷地と明治期の建物、操業停止時のままの
繰糸機を保存した片倉工業に敬意を表したいと思います。
ボランティアガイドの方のお話も楽しかったです♪
富岡製糸場ではガイドツアーがありますので、申し込まれることをおススメします。
繰糸機につきましては、大日本蚕糸会の武井先生のお話、岡谷蚕糸博物館、
日本製糸技術経営指導協会、東京農工大学の資料を参考にさせていただきました。
ある方々から「朝香フィルター」といわれておりますが…、
あくまでも朝香沙都子の私見で、きもの愛好家にもわかりやすいようにまとめています。
岡谷近代産業遺跡群、岡谷蚕糸博物館レポートも今月中には、何とか…(^_^;)
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秋の金魚と東京ドーム / やまだ織のダイヤ柄単衣の塩沢御召にれえすの花の金魚の染め帯
今年の秋は早い…。
いえ、これが普通だったのですが、ここ数年は残暑がつづいて、お彼岸に咲くことから
彼岸花といわれる曼珠沙華の見頃も10月になってからだったり、夏が長かったのです。
今年の秋はゆったりと楽しめそうですね。紅葉も楽しみ
東京ドームホテルにて
こちらのホテル、じつは都心の穴場スポット。
でも、巨人戦が終わった後は巨人カラーのオレンジ色を纏った人々でごった返します
【9月19日の装い】東京◇晴れ(湿度41% すっかり秋の風) / 最低気温18℃ 最高気温26℃
やまだ織のダイヤ柄の単衣の塩沢御召にれえすの花の巻きぼかし友禅の金魚の染め帯。
きものは単衣ですが、帯、帯あげ、半衿は夏仕様です。
楊柳の帯あげは渡敬、帯〆は龍工房、根付紐は藤岡組紐、サハラガラスの根付は海馬ガラス
バッグはジャマン•ピュエッシュ、ぞうりは菱屋カレンブロッソ
「秋の金魚」は、涼しくなりとかく忘れがちになる金魚から取り残されてしまう
例えとしてつかわれます。
この帯には贅沢に金魚が描かれていて、お太鼓で隠れてしまうところには黒い金魚もいます。
夏に受けた講座や旅のまとめレポートがまだまだ残っておりますが、
日々のコーディネートと併走してあげていきたいと思います。
(なかなか追いつきませんが…、)
お付き合いいただけましたら幸いです(^-^)/
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草木染め 実技講習 / 染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その4
富岡製糸場 ~繰糸場と生糸づくり~/ 染織文化講座 富岡製糸場産地研修と草木染実習 その3
のつづき
草木染伝習所主宰の山崎樹彦先生の草木屋での染め実習体験です。
山崎樹彦先生は、草木染めの命名者であり作家の故山崎斌氏のお孫さんです。
今回の染め実習は、紫~水色の藍の煮染、桜のアルミ媒染、五倍子の鉄媒染を
絹のシャーリングスカーフに染めます。
●五倍子染め
五倍子とはお歯黒につかわれた染料で生薬としてもつかわれました。
お歯黒につかわれていたということは、かつては広く知られつかわれていたということですが…。
この染料は何からつくられていたか、おわかりになりますでしょうか…?
じつは、白膠木(ヌルデ)の樹にできる虫こぶ(虫癭)から。
中にはアブラムシが詰まっています…(((゜д゜;)))
日本では古代から明治末期までつかわれたお歯黒。
江戸期に3500万人の女性がお歯黒だったと仮定すると
1日に20tの五倍子の粉(ふしこ)が消費されたといわれています。
そんなに白膠木の木と虫こぶがあったのがスゴイ…(=◇=;)
虫が苦手な私としては、ぞっとムズムズ…するような((゚m゚;)
染める絹のストールは水に濡らして絞っておきます。
生五倍子25gを水5ℓで沸騰させ30分煮出したものを水で2倍に薄めて染液とします。
染液3ℓ、水3ℓ、0.15%の木酢酸鉄液2ℓ、をそれぞれ桶にいれます。
0.15%の木酢酸鉄液2ℓが媒染剤です。
絹のストールをぬるま湯のなかで折り畳んで暈しになるよう畳みます。
染液→水→媒染液→水→染液の順で浸し染めを繰り返します。
液が混じらないように絞りながら染めます。
6回~10回繰り返します。
回数を重ねるごとに色濃くなっていきます。
水洗い、お湯洗いをします。
美しく染めあがりました。
●桜染め
桜は桜色が出やすいソメイヨシノの小枝部分をつかいます。
花が咲く前の3月に採取した枝を冷凍保存したもの。
桜の枝600gを20ℓの水で煮だし、沸騰後30分で一番液、15ℓで二番液、10ℓで三番液をとり、
一晩寝かせておきます。
染液3ℓ、水3ℓ、0.2%焼き明礬液2ℓをそれぞれ桶に入れます。アルミ媒染です。
(五倍子染めと同じく)染液→水→媒染液→水→染液の順で浸し染めを繰り返します。
水洗い、お湯洗いをして仕上げます。
●藍の煮染
タデ藍の葉には、インジカンという無色の物質が含まれており、葉が傷ついたり、枯れると、
変化が起こり、インドキシルという物質となり、酸化するとインジゴという青い色素ができます。
インジカンは熱や発酵、有機溶媒でイサチンという物質になり、イサチンとインドキシルの
結合からインジルビンという赤の色素がつくられます。
タデ藍の葉150gをビニール袋に詰め50℃の5ℓの水を加えて2時間置きます。
葉を取り出して液を漉し鍋に入れて加熱します。
50℃~65℃になったら、絹のスカーフを入れます。すると水色に。~75℃まで。
液を鍋に入れて沸騰させます。沸騰後は藍の浮遊物がでてくるのでそれを取り除く。
沸騰後、8~30分で液の色が赤味を帯びたら赤紫色を染めます。
同じ藍の生葉をつかって温度でこのような色の違いがでてくるのが面白い♪
●藍の煮染め、桜染め、五倍子染め、それぞれに美しい~
五倍子染め、とても上品な色に染めあがりました。大満足ですヾ(@°▽°@)ノ
山崎先生、ありがとうございましたm(_ _ )m
染織文化講座の講座記録がアップされています。
秋の講座の申込みもまだ若干あるそうです。まだの方は要チェック(-_☆)→ こちら☆
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雲洞庵の土を踏む。
夏の終わりに訪れた、新潟県南魚沼市にある雲洞庵のレポです(^-^)/
上杉景勝と直江兼続が幼少期に勉学を学んだといわれる越後の国の名刹、雲洞庵。
2009年NHK大河ドラマ「天地人」の中で、樋口与六(後の直江兼続)の
「わしはこんなとこ、来とうはなかった!」の名台詞ですっかり有名になった禅寺です。
当時、大河ドラマ効果で大大大混雑だったそうですが、今はひっそりとしていました。
「雲洞庵の土踏んだか」
「雲洞庵にて禅を学ばなければ一人前の禅僧とはいえぬ」ということから、
修行僧同士がお互いに確認し合った合言葉が起源。
赤門から本堂までの石畳の下には、法華経を一石一字づつ記した経石が敷き詰められている
ことから、参道を踏みしめてお参りすると罪業消滅、万福多幸のご利益があるといわれています。
清々しい空気が通る、立派な杉並木~
雲洞庵は藤原房前の母が庵を結んだことが開祖と伝えられています。
701年(養老元年)に藤原房前が母の菩提を弔うために創建し、室町時代に
関東管領であった上杉憲実が藤原氏末裔の縁で曹洞宗の寺として開創しました。
本堂は上杉憲実によって建立された後、江戸宝永年間に出雲崎の大工群に再建されたもの。
古代よりつづく日本海文化建築の最終到達点のひとつといわれているそう。
本堂の欄間彫刻は見応え有り。
本堂内陣。襖には唐代の禅僧が描かれていました。
こちらは幼少期の上杉景勝と直江兼続が当時の住職であった北高全祝と通天存達
から学んだとされるお部屋。
柱が天井までつきでていない造りは大方丈といわれる禅宗書院造りの最高格。
廊下から眺められる庭園では初夏には水芭蕉が咲くそうです。
三方が突抜の窓になっている客殿
客殿からみた観音堂と回廊の眺め
反対側からは直江兼続の居城であった坂戸城趾がみえました。
宝物殿へ
若冲の掛軸や謙信公の馬具などが展示されています。
藤原房前所縁の品と伝わる品。
上杉家の家紋である竹に二羽飛雀。
藤原房前の藤原北家が源流の勧修寺一門の紋です。
上杉景勝、直江兼続、武田信玄、武田勝頼からの書状なども残されていました。
※寺院及び宝物殿での撮影と「きものカンタービレ♪」への掲載許可をいただいております。
緑が生い茂る中の参拝もいいですが、いつか雪の静寂の中、訪れたいです…。
幼少期、雲洞庵で学んだ直江兼続は戦乱の世で疲弊した越後の立て直しに、
田畑の開墾の他に苧麻(からむし)を栽培し越後麻布の生産を奨励します。
兼続が領民のために記したとされる「四季農戒書」には、
正月には糸をつくり、苧をひねり、きものをつくるべしと、
農閑期の麻布生産をすすめています。
越後から会津へ、そして関ヶ原の戦い後、会津120万石から米沢30万石へと大幅な減移封と
なりますが、「人こそ組織の財産なり」と称え、人員削減をせず財政難を乗り越えます。
米沢で、桑や苧麻そして紅花の生産を奨励した兼続の政策は、後の上杉鷹山に
受け継がれ、現在の米沢織につながっていきます。
というわけで…、(ではないのですが…)←もともとの予定+色々
米沢へいってきます。
現地からはfacebookページと「なう」でリアルタイムレポします(^-^)/
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米沢 @ なう
昨日と今日の米琉
きもの文化検定 主催 工房見学 at 米沢
今日の紅花染の米沢紬と浴衣と黄八丈の半幅帯
染織文化講座 秋の3日間はじまりました! 土屋順紀先生•丸山伸彦先生 / 紅葉文様の楊柳単衣小紋
楽しみにしていた秋の染織文化講座がはじまりました♪
「紋紗」重要無形文化財技術保持者でいらっしゃる、土屋順紀先生と
土屋先生の染めはすべて植物染め。
平織と捩り織が交互に入った紋紗という複雑な織りを、グラデーションが美しい
絣で織りあげています。
蝉の羽のような透明感、そして自然界の光の微妙な色の美しさ…。
こんな美しい織物を織られる方はどんな方なのか、お会いできるのを楽しみにしておりました♪
つくり手の美しい精神が反映されているなあ…と、あらためてウットリ(〃∇〃)
丸山伸彦先生のお話は、工芸会の先生方のそれぞれの技法から、その名前や捉え方は
時代によって変わっていく、その変遷から現代の作家が生み出した、江戸時代の遊びの仕掛け
ともいえる、技と意匠。
現在三越で開催中の日本伝統工芸展ではその作品群が見られます。
高松宮記念賞受賞を受賞された松原伸生先生の長板中形着尺「漣文」
長板中形着尺なのに夏大島?と違和感があったのですが、江戸時代の技法を忠実に
再現したともいえるものだそう。
現在の江戸小紋のしごき染の技法は、化学染料が日本へ入ってきて色糊ができてからのもの。
江戸という名がついているのは、技法ではなく作品の趣から。
「江戸時代には今の江戸小紋(しごき染め)はない!ということ、そして長板中形との違い。」
きもの文化検定を受けられる方はこの辺りを120字ぐらいで
説明できるようになっておくことをおススメします。
好きなことの勉強って楽しい~♪(〃∇〃)♪
講座レポートは染織文化講座HPの講座記録にて。こちら☆
※講義中の撮影は、染織文化講座HPの講座記録係として許可をいただいたものです。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
【9月27日の装い】東京◇曇り(湿度59%) / 最低気温17℃ 最高気温24℃
染まりかけの紅葉文様の楊柳の単衣小紋に目の詰まった紗の夏帯をコーディネート。
楊柳の帯あげは渡敬、帯〆は龍工房
昨夜、東北から帰ってきたばかりで、グッタリ…((x_x;))
お会いする方に、お疲れが顔に出てます!と…、ああ、さすがに休養が必要かも。
蔵王は紅葉がはじまっていました
東京は金木犀の香が漂っています~。
今年の秋は楽しめそうですね~o(^▽^)o
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丸山タンク〜金上繭倉庫〜旧岡谷市役所庁舎〜旧山一林組 / 岡谷近代化産業遺跡群巡り その1
富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産となり、日本の近代化の立役者となった「日本の絹」
とその産業遺産に注目が集まっています。
そして今年の夏には岡谷蚕糸博物館がリニューアルオープンしました。これは偶然?
こちらは別記事で詳細にレポします。
岡谷は諏訪湖畔にある市で明治から昭和はじめにかけて、製糸業が栄え世界に糸の都
「シルク岡谷」として名を馳せました。
最盛期には、大小200を超える製糸工場と煙突が立ち並び、3万人を超える女工が各地より
集まったといわれています。そして岡谷の製糸家(岡谷では製糸工場の経営者を製糸家といいます)
により生産された生糸は、日本の1/3を占めたのだそうです。
製糸で隆盛を極めた痕跡が今も街のあちこちに見られ、近代化産業遺跡群として認定されています。
地元の人も知らない(というか興味がない人がほとんど…)の近代化産業遺産巡りレポです。
●丸山タンク●
まるでローマの遺跡のようですが、1914年(大正3年)に製糸場への給水のためにつくられました。
上から覗き込むと三重の円筒型になっています。外周38m高さ2m壁の厚さ60cm強。
約650m離れた天竜川よりポンプで水を引き、タンクの中で不純物を沈殿させてから
各工場に水を供給しました。
絹には水質が大事というのは、京都や金沢など軟水の川が流れるところで友禅流しが
行なわれていたことからも明白。糸づくりの煮繭や繰糸も中性の軟水が良いのだそうです。
総量は50tで約3500個の釜に対応できたといわれています。
この丸山は古墳であったともいわれ、勾玉などが出土したと伝わっています。
ちなみに今では地元の方でもここに給水タンクがあったということを知っている人は少なく、
場所も個人宅の庭先のようなところを通らないと辿り着きませんσ(^_^;)
●金上繭倉庫●
かつて岡谷の街は煙突と繭倉庫だらけだったそうで、昭和初年は105棟の繭倉庫があり、
白壁の五層造りの建物は黒い煙をあげる1000本の煙突とともに岡谷の象徴だったのだそう。
岡谷に残る数少ない繭蔵で明治初期に建築されたもの。
木造三階建ての土蔵で切妻造りに鉄板茸、全体に白の漆喰塗り仕上げとなっています。
繭は蛾となってしまう前に乾燥させることになります。そのため一括で繭を乾燥させて
貯蔵する倉庫が必要でした。漆喰なのは火災よけ。
●旧岡谷市役所●
諏訪湖畔にあった小さな村からは機械製糸による生糸の大量生産を可能にする製糸家を
たくさん生み出します。そして急速に発展したことにより村から町を経ず岡谷市となりました。
これは製糸家の尾澤福太郎によって寄贈された庁舎でした。
現在は何と!消防署としてつかわれています。
糸繋がりで富岡市とは姉妹都市、庁舎前には富岡市から贈られた石があります。
そういえば、富岡製糸場も近くに川が流れ大きな給水タンクがありました。
●旧山一組製糸事務所・守衛所●
1879年(明治12年)創業の山一林組の事務所。
「あゝ野麦峠」にもでてくる山一争議の舞台となったことでも有名です。
この日は、岡谷の太鼓祭りの次の日だったので周辺は提灯が飾られたままで櫓が解体中。
なので過去の写真より流用
2年前も見学させていただきました。こちら☆
ノスタルジックな建物と機械がそのままに。
今では岡谷絹工房として絁絹(あしぎぬ)をつかった岡谷絹が織られています。
つぎは、旧林家住宅のレポです。 ←ここが素敵なの~(〃∇〃)
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