有職文化研究所主催による「雑事抄を中心に宮廷装束を見る」勉強会へ
宮中の神事の装束のところ。
衣紋道高倉流宗会頭の仙石宗久先生のお話からザックリとですが…、
●青摺衣と津賀利袴●
神事に舞う東遊の舞人陪従の着る装束
「春日権現記絵巻」は正確な描写がされている絵巻もののひとつ。
応仁の乱以降途絶えていた宮中行事を復興したのは東山天皇(1675~1710)。
父である霊元天皇の譲位(院政を行なう)により即位。大嘗祭を復活させます。
右肩を肩脱ぎして舞う舞人は普通は右肩につける赤い紐を左肩につけるのが特徴。
薄縹色の袴には紐のゆとりがあり下袴の赤い色が見えている。
下着を見せる文化は舞人からはじまっているとのこと。つがりの糸は白と藍の段染め。
後に、この津賀利袴を略して、白の平絹に青摺の文様の摺袴を履くようになる。
葵祭での舞人の青摺袴
●小忌衣(おみごろも)と日蔭の絲●
小忌衣とは白地の麻に胡粉をひいて青摺で文様を描いたもの。
大嘗祭では悠紀方は菊に蝶、主基方は松に鶴。悠紀とは素晴らしいお酒の意。主は次。
1915年(大正4年)の大礼祭から小忌衣は諸司小忌(しょしのおみ)のみ。
冠の巾子に日蔭の絲をつけます。
冠につける日蔭の絲は、シダの一種の日蔭蔓(ヒカゲカズラ)。
古事記の天の岩戸の伝説のところにもでてきます。
白い絹糸を撚って蜷結びにしたもの八筋
これを前の左右、後の左右と垂らします。
「装束は常に同じものがつづいていると思われているが、(よく平安王朝絵巻と表されます)
その中で着方や考え方は変化している…」とのお話。
日本は今も皇室があり、宮中での祭祀は行なわれつづいていいます。
本日は7月7日。七夕の節句
東京は朝から雨がふっておりますので、織姫と彦星は出会えないかもしれません。
星伝説とは、娘である機織上手な織女(琴座のベガ)と働き者の牛追い牽牛(鷲座のアルタイル)
が結婚したことによって働かなくなってしまったことに怒った天帝が、天の川で二人の中を隔てて
引き離してしまいます。ですが年に1度の7月7日だけ会うことを許し、この日は鵲が天の川に橋を架け、
二人は会うことができるようになります。雨が降ると天の川の水かさが増し橋を渡ることができず、
二人は会うことができないというお話。星の逢引であることから星合ともいわれます。
乞巧奠は、女性が針仕事が上手くなるように織女に供え物をする宮中行事のこと。
現在の宮中では行なわれていないようですが、京都の冷泉家では乞巧奠が行われています。
梶の葉をに和歌を書き、五色の布に吊るします。星の座といわれるお供えをし、角盥に水を張り
梶の葉を浮かべて星を映す用意をし、琴と琵琶もお手向けしているそうです。
短冊に願い事を書くのは乞巧奠の風習から、短冊や笹を川に流すのは禊からきたもの。
昔は梶の葉の裏に和歌を書いていました。葉脈があって書きにくいのですが風流ですね。
高倉流では衣紋道に相応しく、衣紋紐と檜扇が供えられていました。
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装束雑事抄から学ぶ「青摺に津賀利袴」「小忌衣に日蔭の絲」/ 七夕の節句 乞巧奠の室礼
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