白洲正子氏のコレクション展「白洲正子ときもの」が松屋銀座にて開催中(〜1月16日まで)
樺山伯爵家の令嬢として生まれて白洲次郎と結婚し、権威や世評にとらわれず独自の美を求めつづけたといわれていますが、コレクションを肉眼で見ると、何とも袖を通してみたくなるような素材がグッと魅力的なものが多かったです。
白洲正子は若かりし頃は洋館で生活し海外に留学していて、着物生活派ではなかったといわれています。能でもお稽古は洋服で、舞台に立つときは舞台衣裳であったようです。
海外にでて外から日本をみると、きものの良さがわかるということもありますが、やはり潜在意識の中にきものの美を植え付けたのは、洋館の生活の中でも純和風な趣味を貫き通されたという白洲正子のお母さまの影響のようです。
ちなみに、白洲正子のお母さまは、帯〆が丸くげのものが主流だった時代に、九条武子や藤田伝三郎夫人とともに、束帯の平緒や太刀の組紐を帯〆としてつかうことを思いつき、高田装束と相談し道明につくらせたと、白洲正子の著書にあります。(出典がなんだったのか思いだせないのですが…)
羽二重地に綿を詰めた丸くげの帯〆は、もっさりしていて野暮ったい。今は組紐の帯〆が当たり前になっていますが、これは帯を殺さずスッキリと垢抜けてみえたことでしょう。
そのお母さまの形見である、揉紙の帯も出典されていました。楮からつくられた紙布に刷毛で柿渋を引いて箔押しされ沢瀉が描かれた夏帯です。
黄八丈、郡上紬、葛布、琉球絣、道屯織(ロートン織)、芭蕉布など、糸に力がある日本各地の織物、そして、白洲正子が開拓したともいわれる、田島隆夫の紬に古澤万千子の型染めなど、肉眼で見てこその見応えがあります。触れてみたいなあ…。
イヴサンローラン対日のレセプションのために高田装束につくらせたという、熊野速玉大社蔵の装束地を復元した、萌葱地小葵地臥蝶丸文様の二陪織物の小袖に小袖の下着は鎌倉時代の筋織物を復元した着附け。これを白洲正子は細帯で着流しで纏ったというのですが、こういった着こなしができるのも、能の嗜みがあった白洲正子だからこそのように思います。
元になった「萌葱地小葵浮線綾文様二陪織物」熊野速玉神社蔵
東京国立博物館「大神社展」内覧会にて掲載許可をいただいて撮影。
用の美を極めたといわれますが、ただ自然に手にしてみたいと思ったものを集め、そしてつかっていたからこそのものではないかな…と。
高級品であるものほど、肩書きや権威といったものに惑わされるもの。
ただの蒐集家ではなくて、自分がそれを本当に好きなのか、そしてそれをつかっていたか、着ていたか、生活に取り入れていたのか、というのが、その人の本質であり美学であると思います。
ゆえに白洲正子という人には魅力を感じるものの、白洲正子にインパイアされた云々というのは、どうにも苦手かもしれません。
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志ま亀ブルーのふくら雀小紋に梅の花の絵羽織。
美術鑑賞のときは、コートを着て歩くのも持ち歩くのも苦になるので羽織派。