大正から昭和にかけて、女性の普段着として普及していた銘仙。
大衆絹織物として日本の和装文化の全盛期を彩ったきものです。
つくり手の方は高齢化し後継者もいないまま、今や風前の灯火となりつつあるきもののひとつ。
普段着として無理なく買える程度の価格、しかも今見ても斬新でデザイン性に富んだもので、
大変魅力的なきものなのですが、どうして現代に残らなかったのか?
三橋先生の講義でとてもよく理解することができました
公開講座ではないので一般聴講はできませんが、ご縁があって聴講させていただきました。
三橋先生の魅力(ファンになりました)と講義の明瞭さから、これは是非きもの好きの方々に
知っていただきたいなので今回掲載許可をお願いしました。ありがとうございます!
三橋順子先生と
女装家でいらっしゃり、性社会、文化史研究者でもいらっしゃいます。
三橋先生は1955年(昭和30年)銘仙の里のひとつである秩父生まれ。
当時は生産量もピークの頃で、周りは一面の桑畑、鋸型の大きな建物の機屋が立ち並び 、
自動織機のジャカジャカという音が聞こえ、背の高い糸干場から絹の束が下がっているのは
本当にキレイだったとのこと。そして溝には化学染料の廃水が流れていて登校時には赤い溝、
下校時には黄色い溝のような状況だったのだとか。これが公害問題にもなります。
しかし昭和40年代に入ると急速に衰退し、銘仙は地元でも忘れ去られてしまったのだそう。
銘仙は、先染めの平織。北関東の養蚕地帯では形の良い正繭でない出荷できない玉繭や
出殻繭からとった節糸を染めて自家用のものとしてつくっていたのがはじまり。
明治末期からは工場で大量生産、大量流通の量産品の絹織物としてつくられました。
一生ものです!がセールストークの呉服業界の中で、流行を追ってつくられたもので、都市の
大衆消費文化の目玉商品として百貨店が売り出します。
銘仙は絹の艶と鮮やかな色を染めることを生かすとするために糸が弱いのが欠点(紬との違い)
なので流行に左右されるファッション向きでもあります。
流行に応じるために産地では熾烈な競争も繰り広げられ、コピーが大量に出回ることになり、
産地の違いはあれど見分けにくいものが多いのだそう。
講義ではモデルさんが銘仙を着こなして登場。
昭和戦後になって、銘仙が急速に衰退したのはどうしてなのか?
赤線地区の娼婦の方が銘仙を着用したことによって、そのイメージが定着し嫌われることに
なった…?というお話。
当時赤線地区は原色の街だったそうで(吉行淳之介の小説にもあり)、そこに自分を広告塔
として立つ女性には銘仙が好まれたのだそう。
洋装化がすすみ、礼装、社交着としてのきものが生き残ります。
紬は伝統工芸品として高級化していきますが、銘仙は工場生産品ゆえに伝統工芸、美術品
にならず、保護されることもなく消滅していきます。技術的な復活は難しいののだそう。
2000年代のアンティークきものブームで、銘仙は再び脚光を浴びます。
大正、昭和初期のきもの文化の再評価、ネットによる情報流通の増大からきものを着て
自由に楽しむ場が増えたことなどから、着る人も増え、興味をもつ人もたくさんいらっしゃると
思うのですが、技術が継承されていかないのは何とも残念なこと。
創造性溢れ、当時アール•ヌーボーやアール•デコなど最新デザインも導入しとっても面白い
きものであった銘仙。しかも高級品でもなかったのに、なぜ急速に衰退してしまったのか。
三橋先生のお話、とてもわかりやすかったです。
銘仙を着た人の戦前から戦後への時代背景もとてもよく見えた気がします。
きものはその人を表すものでありますが、時代とともに変わっていきます。
やはり良いものは残していきたいですね…。
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三橋順子先生のお話「銘仙とその時代〜昭和戦前期の着物文化〜」
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