衣紋道高倉流たかくら会による「ひめみこ裳着」の再現。
裳着とは女性の通過儀礼のひとつで男児の加冠に相当します。
現代でいうところの成人式のようなものです。
正装である十二単(五衣唐衣裳)にの裳をつけます。
参集殿入口では随身の蛮絵装束の方々が皆さまをお出迎え♪
「ひめみこ裳着」は1023年(治安3年)4月1日に行なわれた、三條天皇の皇女である
禎子内親王の裳着の設定だったようですが、高倉流宗会頭の仙石宗久先生の解説では、
933年(承平3年)醍醐天皇の皇女である康子内親王の裳着というお話になっていました。
こういった機会に色んな装束を見ていただこうということで、さまざまな装束が登場し、
仙石先生による解説が入ります。これがとても勉強になります。しかも楽しい~♪
康子内親王は醍醐天皇の皇女ですが、この時の治世は兄である朱雀天皇の御世。
朱雀天皇が御召しになられているのは、御引直衣です。
御引直衣とは天皇もしくは東宮、上皇の日常着。
現在の今上天皇は御一代で2回だけお召しになられるそうです。
袴の上に羽織ってガウンのように着るもの。外出の時には引き上げて着るのだそう。
天皇がこの装束を着るようになってから他の身分のものは着なくなります。
冬は白地、夏は年齢に応じて二藍、縹、浅葱色。赤の長袴は女性のものと同じ仕立て。
天皇は冠物は冠。冠は垂纓と巻纓があります。垂纓の纓は後桃園天皇の頃から天皇の
権勢を示すために持ち上がってきたのだそう。明治天皇の時に直立。
天皇につき従う女房の装束は小袿切袴から道中着の袿袴道中着へ。
単をつけているのが正装で単を着ないと略礼装となります。
西洋化がすすめられたこといより、宮中ではきものが着られることはなく、洋服か装束かになり、
1884年(明治17年)には小袿姿を簡略したこの袿袴が宮廷服となりました。
昨年、出雲大社権宮司の千家國麿さんと高円宮女王典子殿下のご結婚式で出雲大社の
参道を歩かれた典子さまの装束が袿袴道中着のお姿です。
随身に先導されて2階のロイヤルボックスへ。
内親王の方々の髪型はミディアムヘアの現代風の新たなスタイル。遊び心でしょうか♪
裳のつけ方は平安期のもの。
現代は唐衣の上に裳をつけますが、平安期は表着に裳をつけその上から唐衣を着用します。
紅梅の直衣。冬の直衣です。
紅梅の直衣は重ねの色目ではなく表地が紅梅色。
三位以上の殿上人の朝服である黒の束帯です。
康子内親王です。汗衫(かざみ)装束を着ていらっしゃいます。
成人前の童女は裳を纏うことはできませんので、この十二単にかわる晴れ着として
発達したのが汗衫装束。元来は汗取りとして着用されたことが汗衫の由来。
汗衫の袍は十二単(五衣唐衣裳)の裳のように長いもので長袴よりもさらに後に引いています。
成人前の髪型は総角(みずら)。
紅の布地に転生をあらわす蝶と鳥文様、紫と白の段染めの紐をつかっています。
髪上げをします。
前髪をあげて釵子をさします。
日蔭の絲は、シダの一種の日蔭蔓(ヒカゲカズラ)でつくられたものから。
これは白い絹糸を撚って蜷結びにしたもの八筋。
汗衫から十二単(五衣唐衣裳)へお服あげ。
衣紋道では装束をお服といい、装束をお着せすることをお服をあげるといいます。
裳の腰結をした大臣の束帯は濃紫の束帯
髪上げ、お服あげをした衣紋者には天皇より白の大袿が拝領されます。
拝舞で謝意をあらわします。
叙位、任官、賜禄の際などに謝意を表して左右左を行う礼のこと。
葵祭りでは今でも走馬の儀で騎乗の拝舞をみることができます。
再拝の後、左に向けて両手を左にのばし袖をあわせて袖をくるり。さらに右に向け同様に。
後に座して同様に。
最後に、東京道場の荘司礼子先生によるご挨拶
荘司先生は康子内親王の母である藤原穏子でした。
後に控えていらっしゃるのでわかりませんでした…(・_・;)
裳着の大役をされた大臣と康子内親王と
裳。美しい引腰と裳
黒の束帯、カッコイイです♪ 宝塚の世界ですね。
石帯の上半分の石が見えるのが高倉流、石を見せないのが山科流です。
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「ひめみこ裳着」at 明治神宮参集殿
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