日本の自然布展 at 関川 / 2014年秋 しな織の里を訪ねる 庄内の旅 その6 のつづきです
今回の旅でもうひとつ楽しみにしていたのは「黒川能」の里を訪ねることでした♪
「能」の起源ははっきりしませんが、1881年(明治14年)に能楽とされるまでは
猿楽とよばれました。奈良時代に大陸から伝わってきた散楽に端を発している
といわれますが、後に寺社と結びつき室町時代に大和四座が生まれます。
観阿弥と世阿弥によって大成し、江戸時代には徳川幕府からの擁護を受け、
武家社会での文化的地位を築きあげました。
大和四座から、観世流、宝生流、金春流、金剛流につながったといわれ、
金剛流から喜多流が生まれ、今日の能楽五流となります。
ちなみに私、若かりし頃は宝生流を嗜んでおりました。
能のゆったりした時間の流れと幽玄の世界に魅せられていたのです。
この頃は、きものに全く興味がなく(どちらかといえば好きではなかった)、着付けも
手伝ってもらわないとできない有様だったのですが、今はきもので生活している…。
不思議なものです。
「黒川能」を知るために王祇会館へ
黒川能も同じ能楽ですが、現存している五流とは全く違った流れで、
山形県庄内地方の黒川の地に伝わりました。
これも起源ははっきりしていないようですが、「六つ目結い紋」を継承していることから、
鎌倉時代から庄内地方を領有する武藤氏(藤原北家の流れ)が関与している説が有力。
清和天皇が里人に宮中の秘事能を伝授した説、後小松天皇の皇子である小川宮が
伝授した説もあるようです。
庄内地方は武藤氏の後、最上氏、酒井氏と領主がかわります。
江戸時代に酒井藩からの庇護を受けて黒川能は発展を遂げました。
黒川能は興行ではなく神事であるため、演じるのは氏神である春日神社の氏子。
氏子が能役者なのです。
そして氏子は普通の人でほとんどが農家(今は兼業農家)の方々です。
驚いたのは、囃子方を含めて全て世襲によって受け継がれているのだそうです\(゜□゜)/
上座と下座の2つの宮座があり、それぞれに座長がいます。
万が一何かあってもどちらかの座が残るように移動は別行動。
舞台は当屋といわれる民家に持ち回りでやってきます。
かつては観客席のために家の柱を切ってまで用意したのだそうです。
黒川に嫁にやるな…といわれるほど、黒川能のためにすべてをかける意気込み。
この気構えが今に伝統を残しつづけていると思われます。
黒川地区に氏子230戸余、上座90戸、下座120戸、座に属さない氏子20戸。
役者は各座に約75名。
黒川では小学校の教育の一環として謡や仕舞が取り入れられているのだそう。
能の番組は上座•下座250番余、狂言は両座同じで50番、すでに五流では絶えてしまった
演目と演式が今も残っているとのこと。
着付けや所作には古来の手法が散在し世阿弥の痕跡がみられるのだそうです。
伝承されている能面(約300点)、能面以前の面もあります。
能装束(約500領)。国指定重要文化財の装束3領、県指定有形文化財の装束21領。
装束については、また後ほど。古代織産地連絡会のツアーで良かった!
装束も展示されています。
黒川能は春日神社に年4回神事として奉納されます。
中でも最も重要なのが、旧正月の2月1日午前3時~2日午後18時に行なわれる「王祇祭」
雪深いこの地で、何と真夜中午前3時から行なわれるのだそう…(・_・;)
春日神社の御霊の王祇様を上座、下座の当屋にお迎えし、一堂に会しての座狩りがあって、
振る舞いが行なわれます。皆さまが裃姿(かっこいい!)
こういったことひとつひとつが受け継がれているのが素晴らしい~。
「大地踏」で黒川能がはじまって、式三番、能5番、狂言4番が夜通し演じられるのだそう。
つづきます(^-^)/
※説明文は上野由部さまよりいただいたレジュメを参考にさせていただきました。
館内の撮影と「きものカンタービレ♪」への掲載許可をいただいております。
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黒川能の里 王祇会館 / 2014年秋 しな織の里を訪ねる 庄内の旅 その7
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