宮古島の苧麻村 / ぬぬパナ八重山勉強会の旅 その5 のつづき(^-^)/
宮古織物事業協同組合へ
宮古島市伝統工芸センターと併設されています。とても立派な建物でした。
宮古織物事業協同組合はHPも充実しています!
入ってすぐのところには、宮古上布の歴史年表のパネル、道具、宮古上布が展示されていました。
ザックリまとめますφ(.. )
●宮古上布の歴史●
宮古島で織物をされていたことがわかる記録とされているのは、中国二十四史の14世紀の史料である「元史」の「温州府志」にでてくる中国に漂着した宮古島民の装束。
宮古の織物が広く知られるようになったのは、16世紀に琉球王府への進貢船の遭難の危機を救った宮古島の下地親雲上真栄が琉球王から讃えられ頭職に任命され、その後、真栄は妻の稲石が織った「綾錆布」を琉球王へ献上したことから。綾錆布は苧麻でつくられた糸(19ヨミ)の藍色の経縞の織物。別名は太平布。このことがきっかけとなり、宮古の織物は琉球王府に知られ、以後は御用布として整えられ、後に税として納められるようになります。宮古島は山と川がないため米の収穫が僅か。年貢としては粟が納められていました。その粟の代わりとして貢納布として上布が織られるようになります。
1609年に薩摩藩が侵攻した頃から大正まで、薩摩上布として江戸や京都へ売られていたのだそう。
明治維新後も人頭税として宮古織物が織られますが、1903年(明治36年)の税制改正によって人頭税が廃止され自由生産と販売がはじまります。
●宮古上布の絣●
1908年(明治41年)仲宗根恵茂により絵図台が導入され、数種類の絣が1個の杼で織れるように。そして地機から高機に切り換え、上布用綜絖が考案されます。
1917年(大正6年)下地招寿が締機をつかった絣締めに成功。翌年には西原幸位が奄美大島で絣機の研究し発展させます。そして、薩摩上布を改名し宮古上布として売られるようになります。
絣の図案作成は、方眼紙のマスに十字で書き込まれます。
締機で絣がつくられるのは、大島紬と宮古上布です。宮古上布の絣を括る方法は手括りと締機をつかった機締めがあります。機締めには織機よりも大きく重量のある締機で織られます。
奄美大島の締機は機が動かないように固定されていましたが、宮古は固定なし。
締機の経に綿糸を掛けて、上布用の絣糸を緯糸として打ち込み固く織り締めます。
経糸の綿糸が括り糸ととなり、織りあがったものが「絣筵(かすりむしろ)」となります。
緯糸の絣の技法は、手結いと絵図式があります。
手結いは一定に染め分けた緯絣糸を織り手が織りながら少しずつ左右にずらしていく方法。
絵図式は絵図箱の上に図案を置き、図案にあわせて綿糸を掛けて絣の部分に墨付けする方法。
※参考文献「織の海道」「宮古上布 その手技」
奄美大島紬の締機と比べてみるとより面白いです。
大島紬 締機の見学 at 締工房匠の館 日本きもの学会産地研修 / 奄美大島&鹿児島の旅 その3
つづきます(^-^)/
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宮古上布の歴史と絣つくり 宮古織物事業協同組合へ / ぬぬパナ八重山勉強会の旅 その6
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