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装束雑事抄から学ぶ「諒闇の装束」 at 有職文化研究所

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有職文化研究所主催による「雑事抄を中心に宮廷装束を見る」勉強会へφ(.. )


1399年(応永6年)に衣紋道高倉家19代高倉永行によって著された「装束雑事抄」
衣紋道の家である高倉家に伝わる装束に関するアレコレを記した古文書です。
これを読み解きつつ装束について学ぶ勉強会です。
読み解いてくださるのは、高倉流宗会頭の仙石宗久先生。


※「衣紋道」とは、すなわち装束の着装法のこと。
本来は装束も衣服のひとつですので、平安時代摂関政治の頃までは装束は緩やかな
ゆったりしたもの(柔装束)を自分で着用していたと考えられています。
平安末期、院政を行った鳥羽上皇は装束に対して並々ならぬこだわりがあり、
生地を厚くし糊を利かせて、かっちりした姿を好みました。
衣紋道の祖と称される源有仁と共に装束のデザインに取り組み、威儀正しく
美しい装束を考案しました。これが強装束です。
強装束は、ごわごわして着にくいため特別な着付け技術が必要となり、この技術が衣紋道と
なりました。衣紋の技を体得した公家の中で徳大寺家、大炊御門家が有能な装束師を輩出し、
徳大寺家から山科流、大炊御門家から高倉流が生まれ、現在の宮中でも並立して採用されています。


宮中の喪についての史料は、鎌倉末期に吉田兼好によって書かれた「徒然草」に
チラッとでてくるぐらいでほとんど知られていないように思います。

天皇が父母の喪に服する期間を諒闇(りょうあん)といいます。
諒闇の期間に天皇がお籠りになられるのが倚廬(いろ)御所。


倚廬御所
にお入りになられるときの装束から平時の装束。
錫紵(しゃくじょ)といわれる素服、諒闇装束の重服と軽服。
夏冬で更衣があり、冠から扇に至るまで決まりがあります。

色の表現は時代によって変化しているということと、
亡くなった人との距離感での装いに違いなど、興味深いものでした。


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