四谷区民ホールで行なわれた伶楽舎の雅楽コンサートへ♪
雅やかな音色と華麗なる装束は典雅の世界に誘ってくれます。
伶楽舎は雅楽の合奏研究を目的として、雅楽の古典楽曲だけでなく、廃絶曲の復曲や
正倉院楽器の復元演奏、現代作品の演奏にも力を入れ、雅楽の理解と普及のために
国内外で幅広い活動を展開している雅楽演奏グループ。
テーマが独創的で学術的にも興味深いのです(ノ゚ο゚)ノ
今回は「大名が楽しんだ雅楽」
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雅楽は日本の上代以前からの楽曲や舞と中国やベトナム、朝鮮半島の楽曲や舞が融合し、
シルクロードの終着点である日本で花開いた世界最古のオーケストラといわれています。
752年(天平勝宝4年)東大寺大仏開眼法要では大規模な楽舞が行なわれた記録が
続日本書紀にあり、屏風絵にも描かれています。
平安時代に楽制改革がなされ、儀式芸能としての雅楽とは異なる宮廷音楽としての雅楽が
発展。しかし、応仁の乱によって楽人が地方へ四散、楽譜や装束が消失したことによって
多くの楽曲と演奏技法が失われ宮廷音楽としての雅楽はほぼ断絶してしまいます。
ちなみに1512年(永正9年)代々笙を家業としていた豊岡統秋は、応仁の乱によって
雅楽の伝承が途切れてしまうことを懸念し、雅楽の口伝、源氏物語や十訓抄など古書からも
引用した記録本「體源抄(たいげんしょう)」を執筆します。今でも雅楽研究の必読書です。
狼に教われた統秋が笙を奏でると狼は感動しその場を去った逸話
※月岡芳年「北山月」 ウィキペディア•コモンズより
江戸時代になると徳川幕府により三方楽所(宮中、興福寺、四天王寺)が制定され雅楽の
復興がされます。家光は江戸城内紅葉山にも楽所をつくりました。
明治時代になると三方楽所と紅葉山楽所を併合して雅楽局(現在の宮内庁雅楽部)が
つくられますが、伝承の違いがあったため画一化された明治選定譜が作成されます。
長くなってしまいましたが、ここまでは前置きです…(-。-;)
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さて、江戸時代の雅楽はどんなものだったのでしょう。
伶楽舎のパンフレットによると、今日とはまた違う広がりあるもので自由な姿であったとか。
紀州徳川家に伝わる雅楽譜には譜面によっては異なる旋律のものもあるそうで、現行のもの
と聴き比べて楽しんでくださいとのこと。
◎治宝と雅楽(紀州徳川家伝来譜からの復元)
紀州徳川藩第10代徳川治宝(とくがわはるとみ)は数寄の殿様といわれるほど、書画、日本画、
茶の湯、そして雅楽を愛したそうです。琵琶を嗜んだとか。
古今東西の雅楽器を蒐集し、そのコレクション231点は国立歴史民俗博物館に収蔵されています。
1•春鶯囀(しゅんのうでん) 遊声 琵琶独奏 ←芝先生による琵琶独奏!
2•春鶯囀(しゅんのうでん) 颯踏 筝(下壹越調)、龍笛
3•催馬楽 安名尊(あなとう)
4•管弦 平調音取、越殿楽(えてんらく)
伏見宮貞敬親王より伝授されたという大曲、そして紀州徳川家に伝わる雅楽譜からの復元演奏。
有名な越殿楽ですら違いが聴き分けられるほど聴き込んでいないのですが、雅楽好きだったと
いう徳川治宝公に思いを馳せつつ、想像力をもって堪能させていただきました♪
◎西浜御殿舞楽之図より
1•管弦舞楽 陵王
2•舞楽 甘州
数寄の殿様の治宝によってつくられた紀州藩の別邸、西浜御殿。1823年(文政6年)に
こちらで催された舞楽会は絵画化され克明な記録が残されています。
治宝自身が和琴を弾いたのだそう。(資料によると陵王でない曲を弾いたらしいです)
甘州では治宝自らが舞人をつとめたそうで、藩主が舞われる場合にどのようにして鑑賞すべき
なのか?というお話もありました。(入退場のときのみ平伏し後は厳かに鑑賞するのだそう)
今回は平伏なしで(笑 ということでしたが、君主が舞う姿を厳かに鑑賞する家臣になった
つもりで楽しませていただきました♪
和琴譜は紀州徳川家伝来資料になかったそうで、土佐山内家に伝存する和琴譜と現行譜
による演奏でした。
伶楽舎パンフレット いつもながら解説がわかりやすくて勉強になります!
雅楽というと平安貴族の雅やかなものという印象が強いですが、各時代の教養人や
楽人によって現代まで伝承されつつ楽しまれてきたもの。
何といっても世界最古のオケですから♪
装束について学ぶと様々な関わりも見えてきますが、奥深いです
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「大名の楽しんだ雅楽 〜徳川治宝をめぐって〜」/ 伶楽舎雅楽コンサート
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