みやざきエクスプレスに乗船! きものでカーフェリー / 2016年5月 宮崎の旅 その1 のつづき(^-^)/
G7伊勢志摩2016年サミットの翌日、宮崎では「第1回 太物サミット」が開催されましたヾ(@°▽°@)ノ G7のサミットと時期がかぶったのは偶然だそう。私は関西からフェリーで当日の朝現地入りしましたが、前日は大韓航空機のエンジン出火で羽田空港の滑走路が閉鎖される事態となり、欠航や遅延が相次いで、東京からの人は大変だったようです。
太物サミットの会場は宮崎市民プラザ。宮崎港からバスで30分くらいだったでしょうか。この日はあいにくの大雨でした。しかし<太物>を語るには、この雨はじつは悪くない…と思っておりました。
そもそも「太物」って何でしょうか。<布の歴史のおさらい>
※サミットでは語られていないので朝香沙都子の見解です。
かつて庶民にとって絹織物は特別なものでした。絹の中で紬は庶民が着ても良しとされたのは、長い繊維が取れない屑繭を農閑期に時間をかけて糸にしたからです。当時は時間にかかる賃金はカウントされていません。※これが現代との大きな違いで、今は時間がかかる手紡ぎの紬は高価格です。
多くの庶民にとっての日常着は、古代は野山に自生する植物(藤、楮、葛、シナノキなど)から繊維を取り出して布を織り、麻(大麻、苧麻)の栽培がされようになると麻織物でした。<布>は麻織物の代名詞となりました。
江戸時代になり国産木綿の栽培に成功すると一気に綿織物が普及します。この頃の綿花は和棉といわれている短繊維。短繊維を手紡ぎすると糸は太くなります。太い糸で織ると地厚で織り目も粗くなることから綿織物のことを「太物」というようになりました。綿織物は他の植物のように績むのではなく紡いで糸にします。そして染色もしやすい。さらに柔らかくて保温性が高く摩擦に強く丈夫であることから庶民の日常のきものとして定着しました。明治になると産業革命から長繊維の木綿の紡績糸が生産されるようになると和棉は減少の一途を辿ることになり、今では希少品となっています。
絹織物を扱うところは「呉服商」、綿織物、麻織物、毛織物を扱うところは「太物商」といわれたことから、その名残りもあり広義の意味で絹織物以外の反物を「太物」というようになります。絹糸と比べると糸が太いことから反物の巻きが太くなることからでもあったようです。
水洗いができること、絹にはない、野趣あふれる素材や素朴な風合い、絣や縞の魅力もあるとことが太物の魅力です。量産できるものは低価格帯であるのも日常着として重要。和棉や原始布、上布など希少性の高いものは高級な日常着となっています。
今の時代は身分格差がありませんので、庶民でも日常から絹織物を着ます。そしてきものを着ることが多くの人にとっての特別なオシャレになると、太物を着る人は激減してしまいました…。
しかしここ数年の傾向ですが、きものを日常で楽しむ人がでてきました。すると「水で洗えるきものを着たい」という利便性を重視するきものユーザーが増えてきたのです。夏ものの麻織物の小千谷縮をはじめとして、単衣として季節を問わない木綿のきものも着る人が多くなりました。
一度無くなりかけたものというのは、後継者がいません。なので太物をつくっているところは産地でもたった1件というレッドリストとなっているところがとても多いのです。そして扱っている呉服屋さんもあまりないのが現状です。すると日本全国で同じようなきものを求めている人は同じようなところに集まります。
今回の太物サミットは宮崎にある1件の呉服屋さんの発案ではじまりました。「染織こだま」さんです。もともとはごく一般的な呉服屋さんで、太物専門というわけでもなかったそうなのですが、現在の社長である児玉健作さんが日常にきものを着るようになってから太物を多く扱うようになったのだそうです。
そして「もっと自然に多くの人にきものを楽しんでほしい」という熱い想いからの太物サミットの開催だったかと思います。
つづきます(^-^)/
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太物って何? 太物サミット at 宮崎市民プラザ その① / 2016年5月 宮崎の旅 その2
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